特別企画「鈴木寛『テレビが政治をダメにした』第二章無料公開
津田マガ記事
(※この記事は2013年4月5日に配信されたメルマガの「特別企画 鈴木寛『テレビが政治をダメにした』」から抜粋したものです)
民主党の鈴木寛参議院議員(@suzukan0001)による『テレビが政治をダメにした』という新著が4月3日に発売されました。通商産業省、慶應義塾大学環境情報学部助教授を経て参議院議員となったスズカンさんは、役人、情報社会学者、国会議員という多様な立場で政策に関わってきた貴重な人材であり、民主党を担う政策通、論客としても知られています。そんな彼が「テレビから干される覚悟で書いた」と語る本書では、視聴率至上主義に走るテレビ局やキャスター、テレビにおもねる政治家がめった斬り。テレビメディアと政治の関係を紐解く貴重なメディア論にもなっています。今回本書の中でも特に資料性が高く、序盤のクライマックスと言える第二章をご本人から許諾いただき、本メルマガに転載させていただきました。新書840円とお求めになりやすい価格になっていますので、面白いと思われた方はぜひご購入のほどよろしくお願いします。
◆第二章 テレビと政治の関係はいつから変質したのか
──テレビメディアと政治の重大事件史──
【1972年】
佐藤栄作首相が引退表明。
新聞記者を退席させ、テレビに向かって引退会見。
【1979年】
自民党四十日抗争。
浜田幸一議員が報道陣の前でバリケードをぶち壊す光景は、
テレビで大きな話題になる。
【1980年】
国会の予算委員会がテレビ中継。
【1985年】
テレビ朝日「ニュースステーション」放送開始。
【1988年】
リクルート事件。国会の爆弾男・楢崎弥之助議員が
日本テレビ「ニュースプラス1」でリクルートの贈賄工作を暴露。
【1989年】
テレ朝「サンデープロジェクト」放送開始。
田原総一朗氏の登場。
【1989年】
テレ朝「どーする!? TVタックル」放送開始。
【1992年】
フジテレビ「報道2001」放送開始。
小沢一郎氏が率先して出演するが、
小沢氏は細川連立政権を立ち上げた93年ごろから、
メディアとの接触を記者会見だけに制限し始める。
【1993年】
宮澤喜一首相が、「サンプロ」での田原氏とのやりとりで、
政治改革関連法案をめぐって「何としても成立させたい」と
言質を取られ、これが党分裂につながり、政界再編に。
【1993年】
「初代メディア宰相」細川護煕政権誕生。
【1998年】
小渕恵三首相が、ぶっちホンでテレビに電話出演。
【2000年】
加藤の乱。渡邉恒雄氏の山里会で持ち上げられ、
倒閣を宣言するも失敗。
【2001年】
小泉政権誕生。1日2回の「ぶら下がり取材」を行う。
ワンフレーズポリティックスが始まり、政治報道は過熱。
5月には「ビートたけしのテレビタックル」が政治問題を中心に扱い始める。
7月、参院議員選挙があり、小泉ブームの中、大橋巨泉氏が当選。
【2004年】
政治家の年金未納問題をテレビや新聞が激しく追求し、
福田康夫氏が官房長官を、菅直人氏が民主党代表を辞任。
【2005年】
小泉首相が郵政解散を実行。
衆院選総選挙で小泉チルドレンブームが巻き起こる。
【2007年】
メディアの安倍バッシングが最高潮に達し、
参院選で自民党の歴史的大敗。ねじれ国会に。
【2009年】
衆院総選挙で民主党が圧勝し、政権交代が実現。
小沢ガールズが誕生。
【2012年】
衆院総選挙で民主党が大敗し、ふたたび自民党政権に戻る。
第二章ではテレビと政治の関係を歴史の面から見ていきたいと思います。そもそもテレビと政治とは、本質的に折り合いが悪いものなのか。または、いつどこからか変質してきたのかを政治家のメディア戦略と私の体験から見ていきます。
まず、テレビは1953年2月にNHKが、8月には日本テレビ放送網が本放送を開始します。それ以来、60年が過ぎたわけですが、大きく三つの時代に分けることができます。(1)ありのままを伝えていた時代(1980年代中盤まで)、(2)視聴率が取れる映像を狙い始めた時代(1980年代中盤〜1990年代中盤)、(3)デジタル技術の導入で、自由自在に画像編集・画像処理ができるようになった時代(1990年代後半〜)です。簡単に見ていきましょう。
(1)「ありのままを伝えていた時代」(1980年代中盤まで)とは、編集技術が発達しておらず、生放送中心の時代でした。テレビ局のニュースは国会をそのまま伝えるというのが役割です。また、その背景には、テレビ局が政治と密着したところからスタートしたという事情(たとえば、日本テレビ放送網の創設者は米国と協力関係を築き、原子力政策を推進した正力松太郎氏であるなど)もありました。このため、政治に関しては極めて抑制的なものでした。この時代のテレビ史的な代表的政治家といえば、佐藤栄作氏と田中角栄氏でしょう。
(2)「視聴率が取れる映像を狙い始めた時代」(1980年代中盤〜1990年代中盤)とは、日本経済がバブルを迎え、広告収入が格段に跳ね上がったテレビにとっての黄金期です。85年には広告代理店・電通の強力なサポートのもと、テレビ朝日「ニュースステーション」が放送開始。87年4月からはテレビ朝日の深夜討論番組「朝まで生テレビ!」、89年4月にはテレビ朝日「サンデープロジェクト」、89年7月にはテレビ朝日「どーする!? TVタックル」、92年にはフジテレビ「報道2001」が放送を開始し、次々に政治を扱うテレビ番組がスタートします。88年にはリクルート事件が起き、政治の有力者が次々とマスメディアから追及されました。89年1月に昭和天皇崩御、89年11月にベルリンの壁崩壊と、視覚的にも強い印象を与えるニュースが相次いだ時代です。この時代の代表的な政治家は中曽根康弘氏と細川護熙氏です。
(3)編集ができるようになった時代(1990年代後半〜)はバブルが崩壊し、失われた20年に日本経済は突入します。テレビ局も例外ではなく、徐々に広告収入減収の時代になり、高い視聴率を取ることで広告収入を確保する必要が出てきました。テレビは政治に対しても、首相交代、退陣、政権交代、政界再編など目新しくて視聴率が取れそうなドラマを期待するようになります。小泉旋風(2001年)、郵政選挙(2005年)、政権交代選挙(2009年)といったように、政治の中にテレビメディアが関わるようになります。この時代の代表的な政治家は小泉純一郎氏でしょう。
◇80年代中盤までの「ありのままを伝えていた」時代
各時代を代表的な政治家のメディア戦略とともに詳しく見ていきましょう。
80年代中盤までは「ありのままに伝えていた」時代です。米国の強い指導のもと、テレビ本放送は民主主義、資本主義を日本に根付かせる目的をもって、53年2月に始まります(日本の独立はサンフランシスコ講和条約発効による52年4月)。その意向に沿って放送をスタートしたのが、正力松太郎氏が社長を務める日本テレビ放送網です。正力氏は読売新聞の経営者でもあり、日本テレビのニュースは読売新聞のニュースを使うという形が一般的なものでした。
この日本テレビの生い立ちは、日本のメディアのあり方に極めて大きな影響を与えました。即ち、健全な民主主義の発展にとって、新聞がテレビ局を所有するということは、絶対に避けるべきというのが先進国の常識です。独立した新聞とテレビが緊張感を持って、相互に批判し合うことで、偏向報道や恣意的な記事の掲載が難しくなり、結果として、社会に正確な事実とバランスの取れた論評が流通することとなります。
しかし、日本の場合は、新聞社がテレビ局を事実上支配しているところから歴史が始まり、そして、NHKを除くほぼすべてのチャネルが、新聞社の所有であることで、新聞社グループの馴れ合いの構造や談合体質ができてしまいました。
実は、BS放送、CS放送導入のタイミングが、これを打ち破るチャンスだったのですが、BSについては、免許割り当てでBSイレブンなどの例外を除き、事実上、地上波の資本系列をそのまま踏襲した形になってしまいました。CSについては、スカイパー!、ディレクTVなどの登場により、報道の実質的、本格的な多様化が期待され、事実、国会TVなどの独立系テレビがCS放送には登場しましたが、衛星放送回線の利用料が高額で、採算を取り続けることが極めて厳しくなり、閉局に終わりました。
そもそもテレビ局は放送法により免許が与えられる免許事業です(なお、免許第一号はNHKではなく日本テレビ放送網でした)。地方の地上波テレビ局への免許交付やBSなどの割り当てなどが定期的にあり、テレビ局にとっては政治権力というテーマはとてもデリケートな問題だったと推察されます。
当時、政治に対して、圧倒的な力があったのは新聞です。新聞はときに政治を大きく動かすようなスクープを飛ばしました。当時の新聞メディアは、政治と密接な関係を構築するメディアと、反米国や反資本主義的なイデオロギーから政治に対して理想主義的な異議申立てを行なうメディアに分かれていました。いずれにせよ、政治に大きな影響力がありました。
また、新聞メディアはすでに取材・表現方法が高度化しており、政治家に対する贈収賄事件などのスキャンダルをスクープし、政局化させるようになります。政治を「作る」という作業ができるようになってきたわけです。
こうした動きに対して、反発したのがリアリズムの政治を行なってきた佐藤栄作氏です。首相在任期間は7年8カ月間(64〜72年)に渡りましたが、黒い霧事件(66年)など次々にスキャンダルに見舞われました。71年、日米間で結ばれた沖縄返還協定に関して、毎日新聞記者の西山太吉氏が「米国が地権者に支払う土地現状復旧費用400万ドル(時価で約12億円)を日本政府が米国に秘密裏に支払う」密約が存在するとのスクープを放つなど、常に緊張関係にありました。佐藤氏の新聞メディアへの不信が形となって現われたのが、首相引退表明会見(72年6月)で、非常に有名な一幕があります。
「テレビカメラはどこにいるのか。新聞記者の諸君とは話さないようにしている。国民に直接話したいんだ」
と新聞記者を退席させ、テレビに向かって引退会見を行ないました。ただ単に起こっていることを伝えるというのがテレビの役割で、政治家からもそれを期待されていたことが分かります。テレビは国会の予算委員会を生中継するのが役割だったのです。
政治側はテレビメディアをコントロールしようとさえ考えていました。佐藤氏の首相引退表明会見の2カ月後の72年8月、首相就任直後の田中角栄氏(首相在任期間72〜74年)は軽井沢で番記者9人に対し、こう語りました。
「俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣のときから、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、これ(クビをはねる手つき)だってできるし、弾圧だってできる」
「いま俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは社長も部長も、どうにでもなる」
「つまらんことはやめだ、わかったな。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」
この発言は、「軽井沢発言」として田中氏のマスコミ支配を象徴する有名な発言です。確かに当時の田中氏はテレビメディアに対して圧倒的な力を持っていました。というのも、テレビメディアは放送法により免許が与えられる免許事業ですが、この権限は郵政省(現総務省)が有しています。この権限に目をつけたのが田中氏で、57年に岸信介内閣で初めて郵政大臣に就任すると、多くの申請があった地方局の免許を矢継ぎ早に調整して認可を出し、地方への影響力を強めたのです。また、テレビ局と新聞社の統合系列化も促進させました。以来、郵政大臣は田中派がガッチリ押さえてきたのです。テレビメディアの生殺与奪を田中派が握っていたのです。
田中氏は芸能界からも積極的にスカウトを行ない、参議院選挙では全国区で山口淑子氏、山東昭子氏、宮田輝氏などを当選させるなど、テレビの影響力についても理解していました。
テレビは田中氏を「今太閣」ともてはやしましたが、田中派の支配の及ばない月刊誌『文藝春秋』による金脈問題キャンペーンを受け、日本外国特派員協会における外国人記者との会見や、国会での追及を受けて辞任することになります。そして、76年、ロッキード事件で逮捕され、自民党を離党した後も、党内最大派閥の実質的な支配者として君臨したために、田中氏を「闇将軍」と呼ぶマスメディアも出てくるようになりました。
◇政治的パフォーマンスと視聴率狙いの報道
「レーガン大統領はお化粧していましたよ」
大学生のとき、私が政治学者の佐藤誠三郎先生のゼミで聞いた話です。佐藤先生は米国の政治家たちともつながりが深く、頻繁に米国に行っていました。当時はレーガン政権の真っ只中、ゼミの中で、お土産話をしてくれることがあったのですが、「そうか。政治家は男が化粧する時代なのか」という驚きの感情とともに覚えています。
それまでも米国の政治家は、1960年、ケネディ大統領が初のテレビ討論会をきっかけにニクソン候補を逆転し、大統領に就任して以来、テレビの影響力については様々な研究がされていましたが、その20年後の80年に就任したレーガン大統領になると、化粧までするようになったのです。
もともと、レーガンはハリウッドの俳優で、ハリウッド労働組合の委員長です。まさに世界最高の映像技術がレーガンのチームにあり、テレビ映え重視の戦略でした。テレポリティクスの初代大統領となったのです。それまでは非常に中身があって、判断力がある人をリーダーにというのが世界的なコンセンサスでした。
たとえば、ケネディ大統領は政治家に期待される決断ができた。キューバ危機で見られたような極めて微妙な、ギリギリまで両立、鼎立の可能性を探りながら、最後の最後では決断する。こういう、ギリギリのところまで両立することが可能かどうかを探る知恵とそれをサポートしてくれるブレーンと、さらに自分の価値に基づいて優先順位を決め、ジャッジするというのが政治家の役割でした。
しかし、70年代の2度のオイルショックと景気停滞下のインフレに見舞われて疲弊した米国の有権者は歴史観や判断力は二の次で、「ソ連憎し」で、強い米国を体現してくれるレーガンに政権を委ねたのです。レーガンはケネディが有していたような能力は極めて乏しく、むしろパフォーマンス力に秀でていました。強いアメリカというステレオタイプを演じるパフォーマンス力があったのです。このレーガン政権は行革(民営化)路線、税制改革と様々な面で日本に大きな影響を与えました。中でも大きな影響を受けたのが、レーガン大統領との間で、「ロン」「ヤス」と呼び合ったロンヤス関係の中曽根康弘氏です。
中曽根氏は当時、党内基盤が弱かったため、自らの別荘である日の出山荘にレーガン大統領を招くなど、米国との良好な関係をバックに、政治的な実権を握り続けました。なお、日の出山荘のパフォーマンスは劇団四季の浅利慶太氏のアドバイスによるもの。また東急エージェンシー社長の前野徹氏もブレーンに置き、レーガンに習ったパフォーマンス政治を行なったのです。
テレビメディアはこういった中曽根政権のパフォーマンスを好意的に報じました。「安竹宮」とされた自民党内での安倍晋太郎氏、竹下登氏、宮澤喜一氏の3人による中曽根政権の後継をめぐる争いもテレビメディアが報道するようになります。
テレビメディアもバラエティ番組全盛期を迎えて、政治をそれまでのニュースといった形だけでなく、わかりやすく伝えるスタイルに変わってきます。84年には全国ニュースとローカルニュースを統合したフジテレビの夕方のニュース番組「スーパータイム」(ニュースキャスターが立ってニュースを伝えた初めての試み)、テレビ朝日「ニュースステーション」開始。その後の「朝まで生テレビ!」、「サンデープロジェクト」、「TVタックル」など、ニュースとバラエティの融合が始まります。
なお、この時代にテレビ朝日でニュースバラエティ番組が多く始まるのは、66年に東映の持株の半分を朝日新聞社が譲受するまで、新聞社との関係が薄く、新聞メディアと政治家の緊張関係の影響を他局ほど受けなかったことが大きいと見られます。
◇イエスかノーかを迫る田原総一朗の新手法
88年にはリクルート事件が起き、政治の有力者が次々とテレビメディアから追及されるようになります。89年の昭和天皇崩御とベルリンの壁崩壊のニュースは、視覚的にも強い印象を与えた時代を象徴しています。
ニュースを流すことでも視聴率が取れるという時代に突入したわけです。政権に批判的なコメントをする久米宏氏がキャスターを務める「ニュースステーション」の成功から、わかりやすさを重視するとともに、それまでの政治への批判の姿勢が強まります。田中派(その後竹下派)への密室政治批判を展開していきます。
91年10月には象徴的な出来事として、「小沢面接」事件があります。自由民主党総裁選挙において海部俊樹首相の後継総裁を争った宮澤喜一氏、渡辺美智雄氏、三塚博氏を自らの事務所で面接を行なった小沢一郎氏は当時の竹下派の威光を傘にきた人物としてテレビメディアが批判的に報じたのです。92年には、東京佐川急便事件が発覚し、疑惑が取り沙汰された金丸信自民党副総裁をテレビメディアは激しく批判します。旧態依然たる田中派(竹下派)の密室政治を批判することで、視聴率を稼ぎ、政治にわかりやすさを求めたのです。この頃からテレビならではの二分法が始まったといえます。
この時代に人気を博したのは、89年4月にスタートしたテレビ朝日「サンデープロジェクト」です。当初は政治だけでなく、プロ野球選手や文化人のゲストも招くバラエティ番組でしたが、毎週、政治家を呼ぶ形式に変更されます。
政治家にインタビューをするのは田原総一朗氏。すでに田原氏は87年4月からスタートして「天皇制」や「原発」など様々なテーマを取り上げ、物議をかもしていた「朝まで生テレビ!」の司会をしていました。この番組では、映画監督の大島渚氏、小説家の野坂昭如氏、思想家の西部邁氏といった出演者を挑発し、本音を引き出すスタイルでしたが、それを「サンデープロジェクト」という形で政治家相手にもその手法を持ち込むようになったのです。
政治家を次々にスタジオに呼ぶ。政治の裏側を説明させて、政権にイエスかノーかを表明させる。出演依頼を断った政治家がいれば、「断られた」事実を公表する。「もし異論があるならば、スタジオに電話をかけるか、来週出演するか」を迫ったのです。
田原氏の質問は鋭く、93年には時の宮澤喜一首相に『総理と語る』でインタビューした際に、政治改革関連法案をめぐって、「今の国会でやるんですか?」と詰め寄り、「やるんです。何としても成立させたい」との発言を引き出しましたが、この発言は党内調整前の勇み足発言となり、これがきっかけで、党内分裂につながったほどです。
この時代の二分法は「自民」か「非自民」かでした。この二分法のロジックの中で颯爽と登場したのが、細川護熙氏です。93年の非自民8党派連立政権で首相となった細川護熙氏(首相在任期間93年8月〜94年4月)は記者会見ではプロンプターを駆使し、記者をペンで指名する……さっそうとしたメディア戦略で「初代メディア宰相」とも評されました。
ただし、この動きには下野した自民党も反発します。9月21日、日本民間放送連盟の第6回放送番組調査会の会合でテレビ朝日報道局長の椿貞良氏が「非自民」側を利するような発言をしたと産経新聞が10月13日に報じ、政治問題化します。不偏不党を理念とする放送法に反するものではないかと、放送免許の取り消しさえも示唆されたほどです(最終的には行政処分となりました)。テレビ局が政治に対して影響力を行使するようになったのです。
◇時代を動かす広告代理店電通と小沢一郎
この時代の政治に対し、テレビが大きな影響力を持った理由は、三つの大きな動きが重なったためといえるかもしれません。その三つの大きな動きとは広告代理店電通、小沢一郎氏、田原総一朗氏です。
まず、電通はニュースで視聴率が取れるということを「ニュースステーション」で証明しました。広告代理店のテレビ局における役割はテレビ番組にスポンサーを連れてくることです。ニュース番組である「ニュースステーション」に多くのスポンサーを集めてくることに成功したのです。キャスターである久米宏氏は04年の「ニュースステーション」を辞める直前のコメントでは電通への謝辞を口にしたほどです。
これが成功例となり、各局でニュース番組が大々的に始まります。政治家をゲストに呼んで質問するというのも、一般的になってきたのです。ただし、この動きは政治家を消費する動きにつながっていきます。支持率が高い間は政治家をもてはやして視聴率を上げようとしますが、支持率が低くなると、バッシングをして視聴率を上げようとする動きにつながるのです。その象徴的な事例が細川護熙政権です。首相在任期間は1年に満たずに、最後はバッシングの対象となりました。まさしく消費の対象となったのです。
次に大きな動きの二つめ。小沢一郎氏です。もともとは、「小沢面接」事件に代表されるように、田中角栄氏の直系で竹下派でも大きな権限を持っていましたが、92年の東京佐川急便事件などで、有権者からの批判が高まり始めると、政治改革、選挙制度改革を打ち出し、自民党を離党します。このときに小沢氏は執筆論文の中で自らを「改革派」とし、反対する勢力を「守旧派」と二分法のレッテル貼りを打ち出し、各メディアがこのフレームワークに乗ったために成功します。その結果、自民党を下野させ、93年の非自民8党派連立政権を誕生させたのです。
その後、小沢氏は新生党、新進党、自由党、民主党と渡り歩きます。90年代まではメディア対応にも成功していたように見えますが、00年代以降はバッシングの対象になり始めます。
この頃には私も同じ民主党内にいました。民主党と自由党の合併後、小沢氏が直接関わっていない話まで、さも、すべてを牛耳っているかのように、小沢氏のステレオタイプがどんどんメディアによって虚像として広まっていきました。メディアには過剰に小沢発言が取り上げられた。なぜこんなに小沢発言が露出するのだろうかと考えたことがあります。
やはり、メディアとの関係が変わってきたのではないでしょうか。小沢氏は田中角栄氏の直系ですから、田中氏を見習い、47歳で自民党幹事長就任後、メディアとの間に関係を作っていったはずです。その頃は同年代だった記者たちも、90年代になると役職付きになり、社内で実力を持ってきます。しかし、00年代になると定年退職の時期を迎え、社内には小沢系の記者はどんどんいなくなっていった。このために00年代以降、小沢バッシングが強まったのではないでしょうか。
小沢氏と同年代を生きた代表的なテレビ局社員でいえば、元フジテレビプロデューサーの澤雄二氏(公明党元参議院議員)がいます。フジテレビ入社後、報道局政治部などに在籍し、プロデューサーとして「スーパータイム」や「報道2001」などを立ち上げます。「報道2001」では小沢氏を頻繁に出演させました。93年には報道センター編集長に就任します。しかし、00年代に入ると、国際局次長を務めたあとに、03年には公明党からの出馬要請を受け、フジテレビを退職するのです。04年7月の参議院議員選挙に東京選挙区から公明党公認で立候補しますが、「議員任期中に66歳を超えない」という理由で10年に引退しています。このように、同時代のメディア関係者が第一線から退きつつあるためにバッシングが強まったのでしょう。
また、小沢包囲網もあったようです。参議院議員を務めた平野貞夫氏は『平成政治20年史』(幻冬舎新書)で、96年に始まる小沢包囲網の動きを紹介しています。
【総選挙が終わると国会の内外で小沢潰しが活発化した。もっとも陰湿なのは、竹下元首相の指示で、『三宝会』という秘密組織がつくられたことだ。新聞、テレビ、週刊誌などや、小沢嫌いの政治家、官僚、経営者が参加して、小沢氏の悪口や欠点を書き立て、国民に誤解を与えるのが狙いであった。現在でもテレビ等で活躍している人物がいて、いまだにその影響が残っている】
この頃からメディアの小沢アレルギーは始まっていたのです。
◇政治家の感情を引き出す田原総一朗の功罪
そして大きな動きの三つめ。田原総一朗氏です。私は田原氏には功と罪の両方があると思っています。本来、政治家は政策に対して理性的にしっかりと熟慮する。言葉を選んでものを語るべきです。政治というのは基本的に理性の積み上げなのです。ところが、田原的手法は、わざと激昂させて動物的な感情をあらわにさせ、それを見事に編集してきました。遠い政治、密室のプロの政治だったものに人間味を出すことによって身近にしてきたという功績は大きいですが、その一方で、ある種の娯楽性というものを作り出した罪も大きい。結果、政治が消耗品になってしまいました。理性によって感情を抑えるということが政治なり統治の基本なのですが、むしろ理性を捨てて感情を剥き出しにした方がテレビ的には受けます。感情と感情のぶつかり合いを演出するようになったのです。人間の剥き出しの感情をあえて煽るのです。
剥き出しの言葉、表情は感情であり、それは政治ではありません。喧嘩になってしまうのです。感情と感情のぶつかり合いを見世物として消費することを田原氏は深夜の討論番組「朝まで生テレビ!」で文化人の出演者を挑発することで身に付け、日曜朝の「サンデープロジェクト」で、政治家相手に実践するようになったのです。
実は、私も、慶應義塾大学助教授の時代と選挙特番以来、2013年2月23日に久しぶりに「朝まで生テレビ!」に出演しましたが、政治家に対する田原氏の手法はまだ健在でした。イエスかノーかで田原氏は政治家に迫りますが、イエスかノーかを簡単に決められないところに政治があります。まさに、矛盾と葛藤とトレードオフ(二律背反)にあえて、結論を出していくのが政治ですから、そんな鮮やかな結論にはなりません。交渉に交渉を重ねて、妥協といわれても、利害関係が絡み合う多様な関係の中で「暫定的な個別解」を一つ一つ決めていく泥臭い仕事です。その案件に着目した一定の答えをまずは出し、それを常に修正していくしかない。イエスかノーかで簡単に答えられることなら、役人でもできるし、やればいい。イエスかノーかで決着しない話だからこそ政治家の所に話が来るのです。
政治決断をすれば、特に、政治の最高責任者は、ぎりぎりの判断を迫られるので、 意見を採用してもらえない側も最大49%いるわけです。採用してもらえなかった側にメディアがマイクを向ければ、なんてひどい政治家なんだろうと話すでしょう。意見を採用してもらった側は、もう決着したのだから、そっとしておいて欲しいはずです。
たとえば、重大な政治決断すべき案件が三つあったとして、政権が下す判断を三つとも支持する人々というのは、確率的には、二分の一を三回かけあわせた八分の一ということになります。八分の七の人々は、三つのうち、一つ以上は判断に異を唱える。政権を担うということはこういうことなのです。耐えることだということを、長年政権についていた自民党はよくわかっています。そうした不満への対処の仕方も含めて長けていたのです。
さらに政治家は交渉を有利に進めるために打つ手を残しておきたいわけです。ところが、田原氏の前では「イエスかノーかその場で決断せよ」と迫られます。多くの視聴者には、回答を留保した政治家は決断力がない人間に映ってしまうので、政治家側もできるだけ、政策に関しての前向きな態度を見せようとする。野党は、対決姿勢をテレビの前では強調する。すると、打つ手がどんどん過激になり、選択肢を減らされてしまうのです。一騎打ちが大好きな日本人の好みに合わせて、田原氏は、どんどん一騎打ちの枠組みに追い込んでいく。見せ物として面白く仕立てていくのです。
しかし、テレビ発言(言質)を取られていなければ、対外交渉の場合でも、与野党協議の場合でも、違う妥協とか知恵が出ていたかもしれません。事前にテレビに出ることで、テレビでの発言に縛られて自縄自縛に陥ったり、非常に中途半端なことになったり、むしろ現場に混乱を与えたりといったことになってしまうのです。
私は、超党派の議員連盟の幹事長や事務局長をかなり多く引き受けています。特に、自民党の会長から、直接、指名をいただくことが多いです。現に、いくつもの議員立法や超党派政策を実現しているので、本当にまとめなければならない案件は、よく声がかかります。与野党の妥協を行なううえで重要なのは、大事な政策はなるべくメディア沙汰にしないということです。
メディアに注目された瞬間に、敵と味方に分断されて、言質を取られ、どんどん手が狭まるからです。メディア沙汰にならなければ、与野党で前向きに知恵を出し合い、現場が抱えている問題を一緒に解決しようという雰囲気が醸成され、交渉は大変うまく進みます。たとえば、民主党の松井孝治氏らがまとめたNPOなどの公益法人に対する個人の寄付促進税制の実現などがその典型です。これは、新しい公共という政策がメディアからあまり注目されなかったがゆえに、与野党協調が成功しました。あまり報道されていませんが、本当は、与野党が協力して前向きな仕事をたくさんしていますし、一年間の国会で成立する法律は約100本あり、そのうち、7〜8割に対して有力与野党は賛成しているのです。でも、今のメディアが求める物語は、与野党が仲良く日本のために努力している姿は、画にならないので、無視されるということです。
◇「いただき」主義の元祖は田原総一朗
「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」のプロデューサーで、亡くなった日下雄一氏が、私が主催するインターネットテレビ「スズカンTV」に出演していただいたときに、田原的手法についてこう語ってくれたことがあります。
「田原さんはリアルタイムで編集している。その編集力は天才的。普通は全部撮って、そのあとに美味しいところを編集するのだけど、それをリアルタイムで、話をしながら頭の中で編集をしているからすごい」といっておりました。感情を引き出すような圧迫面接をするのは、早く起承転結の結のところにいきたいからなのです。地上波はとにかく頭が重要だから、美味しいところをリアルタイムで編集しているのだそうです。美味しいワンフレーズを取るがために全部、詰め将棋のごとくそこに照準を合わせていろんなとこから攻めていく。美味しいところが取れれば、あとはその話題はいらないので、人の話を聞かずに打ち切ろうとするわけです。
テレビマンの共通言語には「いただき」というのがあります。「今のコメントいただきました」「今の表情いただきました」という具合に使うのですが、その瞬間瞬間をいただいて、あとは編集します(「つまむ」といいます)。自分の世界観、コンテクストでつないでいくというのがテレビ記者の姿ですが、その原型ともいうべきものが、田原スタイルだったのです。「いただき」主義の元祖というべきかもしれません。
その一方で、私は学生のときから作家としての田原総一朗氏の大ファンです。実に良いルポをたくさん書いています。ペンの田原氏は、熟慮、理性の積み重ねを丹念に描き出す。彼が書いた本を読むと、丹念な取材に基づき、非常に精緻に丁寧に理性的にまとめてある。書物を読む限り、私の大好きなジャーナリストの鑑としての田原氏がそこにいる。ところが、地上波になると、楽屋では温かく人懐っこい田原氏が計算づくで、敢えて感情をあらわにさせようとするのです。CS波とかBS波といったミドルメディアでの進行ぶりも地上波テレビとはかなり異なり、これも熟議をしっかりファシリテーションされていて好感が持てるもので私もよく見ます。
この点は、90年代にニュースの時代を作った「ニュース23」の筑紫哲也氏とも対照的です。筑紫氏はペン(文章)のときもテレビのときも変わらなかった。ところが田原氏はメディアによって豹変します。田原氏は、三つの人格を使い分けているのかもしれません。本というメディアの特徴、地上波というメディアの特徴、BS波・CS波というメディアの特徴を完全に理解してそれを見事に使い分けている。逆にいうと田原氏ほどマスター・オブ・メディアリテラシーな人はいないということかもしれません。このため、田原氏に続こうと考える人はいるが、誰もこの三つの人格を真似できる人はいないのです。その後のキャスターたちは、追及する姿勢は威勢は良さそうに見えても、中身がなさそうに見えてしまうのです。
◇ステレオタイプな田原的手法の限界
ただし、マスター・オブ・メディアリテラシーといっても地上波におけるいただき主義の田原的手法の罪は大きいものがあります。地上波では本質的な議論ができないのです。映像が必要だという制約もあるためか、誰かゲストを呼んで来て話を聞くことを優先する必要が出てくる。このため、政策、つまり本質的な部分が二の次になってしまうのです。
いただき主義はステレオタイプに準拠したシナリオになります。「いただき」の発言を編集してつないでいくので、結局は、ステレオタイプの強化になるわけです。ステレオタイプにハマっていくと見ている方も分かりやすい。要するに政治に分かりやすさというものを過度にも求めるようになってしまったのです。もちろん、政治家はその努力はしなくてはいけませんが、本末転倒になってしまったのです。
その政策の本質的な部分、政治の背景を説明せずに、いただき主義で美味しいところだけを流すようになります。政治でいえば、政局です。誰と誰がケンカした、誰と誰がくっついたという話だけが美味しいということになってしまうのです。これはその後、編集技術の発達とともに、「TVタックル」として過剰な姿で現われます。「朝まで生テレビ!」で感情をあらわにしていた作家の野坂昭如氏が「TVタックル」で同様のキャラクターとして認知されるのは、その象徴的な動きかもしれません。
また、「朝まで生テレビ!」の手法を引き継いだのが、私もその切れ味は評価している猪瀬直樹東京都知事といえるかもしれません。ジャーナリスト時代は常に一つの問題に焦点をあて、腰を入れて取材し、マスメディアに話題を提供する姿勢は田原氏に通底するものがあります。ただ、田原的手法は次の世代が換骨奪胎、縮小再生産されています。
ほかにも、剥き出しの感情をあらわにさせて視聴率を取るという手法は、「サンデープロジェクト」の司会をしていた島田紳助氏が本音で物事を語るということで人気を博したことにも共通しています。日本テレビ「行列のできる法律事務所」では、弁護士たちに感情を剥き出しにさせ、プライベートまで赤裸々にさせて、視聴率を稼ぐようになります。この番組で人気を得たのが、橋下徹大阪市長ですが、現われるべくして現われた、当然の流れなのかもしれません。
なお、田原的手法の最大の問題は、その後、取材する若い記者たちが、いただき主義に陥ってしまったことです。何か美味しいコメントが取れればそれでいい。その深い背景は特にいらないという姿勢になってしまいました。この点が、経緯も裏も表も中味も分かったうえで演出手法としてやっている田原氏と、中味も歴史も知らずに形だけマネしているテレビ記者との大きな違いです。さらに美味しいワンフレーズコメントであれば、政治家にとっては失言といったマイナスのものでも何でもいいという態度になってしまいました。中身の伴わない「ミニ田原化」です。記者の多くがミニ田原化して、ワンコメントの失言を追う時代になっていきます。
◇編集技術の急速な進歩と政治報道のバラエティ化
次は、「編集ができるようになった時代(90年代後半〜)」です。これに関していえば、実は編集技術の技術革新ときわめて密接な関係にあります。それまでは編集となると、アナログ編集テープの一部を取ってきて、一つ一つマスターにダビングします。それを繰り返して、早送りや巻き戻しをしながら映像をダビングでつなぎ、あとは音を被せるという作業でした。基本的にアナログ・リニア(直線)編集は一つの映像と一つの音楽を二台の以上のデッキを使い、編集していました。
一方、この時代に登場したのはノンリニア編集です。ノンリニア編集は複数の映像素材、複数の音声素材を同時にデジタルで編集することです。これができるようになって、編集が劇的に簡単になり、編集できる内容が劇的に増えたのです。しかも、映像をアーカイブできるコンピューターのスペック容量、ストレージの劇的な革新がありました。さらに、00年から急速にテレビのデジタル化が進みます。
それまでは、宅配便やバイク便でアナログのテープを届けていたわけです。これをインターネット回線のブロードバンド化によって、無線で映像を流せるようになりました。それまでは、ものすごい大型中継車が必要だった映像コンテンツデータ、動画データの受配信がネット上で可能になってきました。
かつてはお金と時間がかけられる映画製作でしかできなかったことが、一人の記者のパソコンのなかでできるようになったのです。いただき主義の編集もやりたい放題です。デジタル化の時代で、テレビがモンスター化してきます。巨大化、肥大化してきたテレビが、政治という物を料理し過ぎて原型すらなくなるドロドロ状態にまでして、売れるバラエティに変え始めたのです。
しかし、テレビを観る側はこれが政治だと思ってしまう。まさか、大きく編集されたものだとは思いません。しかし、実際には、生の材料の味はほとんどないような形で、タバスコ、とうがらしで激辛になっている。およそ原材料とは似て非なるものがテレビから流れているのです。
実のところ私は、映像のノンリニア編集機をいち早く触った男なんです。当時、私は、ボランティアでスマートバレージャパンというNPOで、毎週CS波で放映していた「平成の咸臨丸」という番組のプロデューサーをしていました。日本のノンリニア編集機の第一号のうちの1台が、成城にあるNTT中央研修所にあり、その機械を用いて、「平成の咸臨丸」の編集をしました。CSとはいえノンリニア編集マシンによる完パケを流した第一号でした。95年から97年、「実験的に使って下さい」という話だったので、毎週末、NTTの研究所に行って、それを使って編集していました。圧倒的に編集は便利になりましたが、いずれ、この編集された映像をリアルな映像と勘違いする人々が出てくるのではないかと危惧したものです。
特に日本の場合は、アナログ中継の時代にテレビの信用度が高い。新聞は加工できるけどテレビは加工できない、そこにあるのは本当にリアリティだということで青春を過ごしてきた人たちが多い。
また、イギリスやアメリカでは行なわれているメディアリテラシー教育が日本ではまったく行なわれていません。このために、日本ではテレビが放送することは真実であると、異常なほどに信じられてしまっているからです。
90年代中盤から、テレビで発言する人が選挙に強いという傾向が出てきました。政治家が消費されるようになり、その一方で、テレビに出ている人が正しい、政治を任せてみようという風潮が強くなってきます。
政治との関係では無党派層の圧倒的な支持のもと、青島幸男氏が東京都知事に、横山ノック氏が大阪府知事になり、タレントが政治の権力を握るようになりました。政党側もタレントや文化人への政界進出を働きかけるようになってきたのです。
その結果が、01年4月の小泉政権誕生と、01年夏の参議院選挙です。01年夏の参院選では民主党からは大橋巨泉氏、そして「RVタックル」からは政治評論家の舛添要一氏が自民党から、社会学者の田嶋陽子氏が日本社会党から、作家の野坂昭如氏が自由連合から立候補し、野坂氏以外は当選するという結果を生み出しました。
◇小泉旋風という逆風の中での初当選
実は、このタレント候補が乱立した01年の参院選(東京選挙区)に私は出馬しているのです。この選挙で当選することができましたが、民意が大きく動く潮目というものを現実的に感じました。
私が民主党から公認されたときは、まだ森喜朗政権でした。テレビでその模様が中継され、注視されながらも加藤紘一氏らの森内閣への不信任案同調の動きが失敗する(00年11月の加藤の乱)などで有権者の不満は高まっていました。このとき、私には多くの有権者から熱い支持がありました。
ところが、01年4月、小泉純一郎政権が誕生すると、一気に小泉旋風が吹き荒れます。5月の連休前後に、一票も入らないのではないかという逆風、危機感を感じるほどになりました。初めての国政選挙はなんとか3位で当選しましたが、小泉内閣の支持率は82%でしたから、本当にその人気とすごさを実感しました。
この頃から選挙のたびに、自民党と民主党でどちらかに大きく風が吹く選挙になっていきました。小選挙区の衆議院選挙だけでなく、参院選でも大きな風が吹くのです。
また00年代にテレビをめぐる事情で大きく変わったのは、国民のテレビ視聴への比重が増してきたことが考えられます。たとえば、00年以降くらいから独居老人が増えました。65歳以上の高齢者人口に占める独居老人の割合は、00年には男性8%、女性17.9%で、ついに25%を超えてしまった。総計すると、303万人(男性74万2000人、女性229万人)もの人が独居老人です。独居老人は車に乗れず移動難民も多いので、一日8時間もテレビ観ている人がいっぱいいます。
それでも、都会の老人はテレビ以外のコミュニケーションがあります。しかし地方の老人は地元のネットワークや地縁、絆というものから見放されて、テレビ以外のコミュニケーションが、ほとんどなくなってしまったのです。テレビの影響力が以前は都会に限定されていたものが、地方ほど強い影響を持つようになったのです。
また、第一章で論じたように、テレビが儲からなくなってきた。余裕がなくなってきたということがあります。とにかくあらゆることを視聴率につなげないといけないという視聴率至上主義です。分かりやすさが最優先してしまうのです。
◇小泉時代のワンフレーズポリティックス
分かりやすさ最優先の時代と共鳴し合ったのが小泉純一郎氏です。
小泉氏は就任以来、飯島勲秘書官のアドバイスにより1日2回の「ぶら下がり取材」に応じ、昼は新聞を念頭に置いたカメラなしのぶら下がりで、夕方はテレビで映像が流れることを念頭においたカメラありのぶら下がりとしました。
また、編集されるリスクを最小限に抑えるためにワンフレーズで発信しました。
小泉政権は中曽根政権同様に党内基盤がないために、有権者を味方につける必要があったのです。小泉氏は特に長い話になると話が乱暴で中身がありません。しかし、それをある種の気迫で補っていたのですが、そういった意味では、ワンフレーズだけを切り取ろうとするテレビメディアとは効果的に作用したのです。
ぶら下がりをテレビで見ている視聴者には分からないかもしれませんが、その場で取材している記者は若い。レコーダーを持っているだけの係なんです。上司からいわれているのは「とにかくコメントを漏らさず取れ」「それをただ書き起こせ」「面白いことをコメントしたら早めに連絡しろ」と。上からの指示はこの三つだけなんです。政治家に対して質問をツッコむ必要もない。ベテラン記者がいれば「いや、総理、何年にこういう話があったじゃないですか」というやり取りができるはずなのですが、入ったばかりの記者ばかりでは期待しようもない。「君はそんなことも知らないのか」っていわれて黙ってしまうのです。
また、役人以上に記者は人事異動のローテーションが早過ぎます。やっと用語集が頭に入ってきたころに担当が変わるのです。「それで取材ができるのか?」といいたくなるくらいに本当に早過ぎるのです。
◇政治家のクビを獲るバッシング報道
「小泉テレビ政治」の力が発揮されたのは、いうまでもなく05年の郵政選挙です。
郵政選挙でテレビの力というものを決定的に見せつけられました。小泉政権が進める郵政民営化に反対する自民党の衆議院議員に対し、いわゆる「刺客」候補を擁立し、注目を集めました。しかも女性刺客候補は、郵政民営化反対する現職の議員(ベテラン中年男性)と対照的に映ったのです。さらに、テレビの尺に収まる物語性を作り出し、非常にテレビを意識した戦略をとり、小泉チルドレンといった新人議員たちを生み出します。ワイドショーもこぞって、「小泉現象」を放送するようになりました。反対する国会議員のクビが獲れるかを、こぞって放送するようになったのです。
なお、小泉政権誕生を大きくサポートした田中真紀子氏はかつてマスコミを支配しようとしていた田中角栄氏の長女ですが、彼女はテレビメディアに記号消費された典型的なケースでしょう。テレビメディアは視聴者にわかりやすい結論を求めます。政治家であればクビを獲ろうとします。田中氏は外務省と対立し、テレビメディアをにぎわせ、小泉首相に罷免されることになります。
また、04年には年金未納問題で、メディアは未納問題が発覚した政治家を次々に追及し、福田康夫官房長官、菅直人民主党代表が辞任するなど、与野党を超えて、大きな問題になったほどです。
こうしたテレビメディアの力を利用しようとしたのは自民党だけではありません。民主党も同様です。郵政選挙で自民党は大勝しますが、この選挙をめぐって自民党の武部勤幹事長に不正があったのではないかと追及したものの、肝心の証拠が偽ものであったという偽メール事件(06年)が起きます。偽メール事件は永田寿康議員が衆議院予算委員会で質問したことが発端です。自民党側は「ガセネタ」だと一蹴したにもかかわらず、永田氏、そして当時の前原誠司代表は「報道ステーション」などに出演し「期待しておいて下さい」とマスコミの期待を高めたが、結局、ガセネタであったことが判明し、前原氏は代表を辞任。永田氏は衆議院議員を辞職したのです。
当時、永田氏は過激な発言で知られ、「TVタックル」などに多く出演していました。テレビメディアを味方につけて、自民党に対して攻勢に出ようと考え勝負をかけたのでしょう。しかし、偽メールをつかまされたうえに政権を追い込んでいくための追及のテクニックがなかったのです。テレビメディアがついてくれば、政権を有利に追及できると考えたのでしょうが、「ガセネタ」の疑いが濃厚となった瞬間から、テレビメディアは永田氏側の追及を始めました。残念ながら、本人は09年に自殺してしまいましたが、テレビメディアと政治の関係の中で焦ってしまったのかもしれません。民主党は大きな痛手を受けて、出直すことになりました。
◇政権交代さえも消費の対象になる時代
郵政選挙の次の09年は政権交代選挙になり、民主党が政権につきました。さらに、ご存知のように、昨年の総選挙では自民党が圧勝します。00年代の入ってからの選挙は、常に一方に逆風が吹き、もう一方を圧勝させています。テレビメディアが政治に大きく影響を与えていることは疑いもない事実でしょう。
しかし、そろそろテレビメディアと政治との関係を深く議論する必要が出てきたと感じます。05年には自民党の圧勝で小泉チルドレンが誕生し、09年には民主党の圧勝で小沢ガールズが誕生し、12年に選挙では自民党が圧勝し議員の返り咲きがありました。
このように、政権交代、あるいは政局自体が消費の対象になってしまっています。
メディアは安定した視聴率を稼ぐ一方で、政党及び政治家はどんどん消耗し、政権は短命でどんどん終わっています。しかも、短命で終わっているのは総理だけではないのです。議員の平均年数も風向き次第で大きく影響を受けています。たとえば、連続で10年勤めている衆議院議員は調べてみてもそうはいないと思います。少なくとも、小選挙区連続当選者はほとんどいないのではないでしょうか。
昨年の総選挙で民主党の有能な若手の多くがバッジを外すことになりました。実務能力の高い若手が多く、順当にいけば、何期か後には政策遂行の経験を積むことで、政治のリーダーになれる可能性があったにもかかわらずです。多くは再起を期していますが、テレビメディアの作り出す風に対し、政治家は試行錯誤しているのが現実なのです。
■テレビが政治をダメにした(双葉新書)
著:鈴木寛(情報社会学者・参議院議員)
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▼鈴木寛(すずき・かん)
1964年、兵庫県出身。東京大学法学部卒業後、1986年通産省に入省。中央大学講師等を経て、慶應義塾大学環境情報学部助教授に就任。2001年参議院議員に初当選し、現在2期目。民主党政権下では文部科学副大臣に就任し、スポーツ基本法などを制定した。超党派の「2020東京オリンピック・パラリンピック招致議員連盟」の事務局長、中央大学客員教授、大阪大学招聘教授なども務める。民主党を担う政策通、論客として注目されている。
公式サイト:http://suzukan.net/
ツイッターID:@suzukan0001
最終更新: 2013年4月6日