なぜ松本ハウスは表舞台から姿を消したのか?――人気お笑いコンビが語る、活動休止から復活までの10年
津田マガ記事
(※この記事は2014年1月10日に配信されたメルマガの「メディア/イベントプレイバック」から抜粋したものです)
2013年の夏、ふたりのお笑い芸人が書いた『統合失調症がやってきた』という本が話題になり、いまもロングセラーとなっています。その芸人とは、お笑いコンビ「松本ハウス」(@matsumotohausu)の松本キックさん、ハウス加賀谷さんのおふたり。松本ハウスといえば1990年代後半にテレビを中心に活躍し、人気の絶頂で突然の活動休止を発表。2009年に復活をとげましたが、実は、かつての活動休止の背景には、ハウス加賀谷さんが中学時代から悩まされていた統合失調症という病気がありました。今回は、その当事者であるハウス加賀谷さんと、それを支える側の当事者である相方・松本キックさんに、活動休止から復活までの軌跡、そしてふたりのこれからについて伺います。
◆なぜ松本ハウスは表舞台から姿を消したのか?
――人気お笑いコンビが語る、活動休止から復活までの10年
(2013年12月10日 J-WAVE『JAM THE WORLD』「BREAKTHROUGH!」より)
出演:松本ハウス(お笑いコンビ)、津田大介
企画構成:きたむらけんじ(『JAM THE WORLD』構成作家)
津田:東京六本木ヒルズからお送りしている津田大介のJ-WAVE JAM THE WORLD。今夜のテーマは「なかなか人には言えない心の悩みに対して、僕たちはどう向き合ったらいいのか」。この方たちと一緒に考えます。お笑いコンビ・松本ハウスのハウス加賀谷さんと松本キックさんです。こんばんは。よろしくお願いします。
松本:よろしくお願いします、松本ハウスのキック松本です!
加賀谷:こんばんは。か・が・や・でぇ〜す!!!!
松本:えー、なぜか若干、加賀谷の声が枯れているんですけども。
加賀谷:すみません。ちょっと枯れてるんですよね、はい。
津田:松本ハウスさんといえば、1990年代に『タモリのボキャブラ天国』[1] や『進め!電波少年』[2] などのテレビ番組で大活躍されたお笑いコンビです。人気絶頂だった1999年、突然の活動休止で世間を驚かせ、10年後の2009年に活動を再開。僕も当時のテレビ番組は毎週のように見ていたのですが、実は僕たちは「初めまして」ではなくて、ご挨拶させていただくのはこれで2回目なんですよね。松本ハウスさんがコンビとして復活された4年前、東京の新宿ロフトプラスワンで行われた復活イベント [3] に「お笑いナタリー」の取材スタッフとして立ち会わせていただいて。当日は立ち見が出るほどの盛況だったし、実際に客席から見ていて本当にすばらしいライブでした。「松本ハウスが帰ってきた!」というだけでも感慨深いものがあったのですが、ブランクを感じさせない息の合った漫才を見せてくれて。
松本:いやー、それでも当時はいろいろと大変だったんですよ。
加賀谷:本当に……。
津田:今回、「心の悩み」という番組テーマでなぜ松本ハウスがゲストなのか。活動休止や復活とも関連するのですが、実はおふたりが2013年8月に『統合失調症がやってきた』[4] という書籍を出版されたからなんです。これ、そもそもどういうきっかけ本を出すことになったのでしょう。
松本:それは、加賀谷がもともと統合失調症 [5] で……当時はそう診断されていたわけではないんですけど、中学生の頃に病気を発症しまして。その後、お笑いの世界に入ってからも薬を飲みながら活動していたんですけど、1999年に症状が悪化して、統合失調症と診断されたことで松本ハウスの活動を休止したんです。その後、長い治療を経て復活したということもあり、僕らの経験を通して統合失調症とはどんな病気なのか、多くの人に知ってもらいたいという思いで書きました。
◇幻聴・幻覚に悩まされた少年時代
津田:この本はかなり好評だということなのですが、本を読んで驚いた方も少なくないと思うんです。というのも、ハウス加賀谷さんといえば先ほどの挨拶からもわかるように、ハイテンションな芸風というイメージがあります。
加賀谷:いやいやいや、「まぁまぁ」ですよ!
津田:「まぁまぁ」なテンションでそれなんですね(笑)。とにかく元気な人、というイメージがあった人も多いと思うんですが、実際にはそんな芸風と本来の精神状態との違いに悩まれるようなこともあったのではないかと想像します。そういった苦しい感情を抱えるようになったのはいつ頃のことですか?
加賀谷:まぁ、ハイテンションなのはジョブ――お仕事なわけですよ。あくまでも芸ですから。それは別として、悩み出したというか、なにかおかしいなと気づいたのは小学生の頃ですね。僕、めちゃくちゃ真面目で、中学受験するために厳しい進学塾に通うような子どもだったんですよ。学校と塾の往復のみ、みたいな生活を2年ほど続けたある日、塾の先生が家に電話をかけてきたんです。僕は加賀谷潤って名前なんですけど、先生がうちの母親に「お母さん、潤くんのノートを見たことありますか?」って聞くんですね。で、母親がノートを見たら、最初の見開き、つまり2ページ目と3ページ目が鉛筆の文字で真っ黒に塗りつぶされてる。だれかの仕業というわけじゃなくて、僕が自分でやったことなんですよ。
津田:ひとつの見開きに自分で文字を上書きしていったってことですか?
加賀谷:そうなんです。塾の授業で、先生が黒板に書いたことをノートに書き写していくじゃないですか。普通はノートの3ページ目が終わったら、4ページ、5ページと進んでいくはずなんですけど、なぜか当時の僕からは「ノートのページをめくる」という思考が完全に消え失せていたんですね。
津田:次のページをめくれなかった。
加賀谷:はい。ページがめくれないから、最初の見開きの余白の部分を埋めて、そのスペースもなくなったら今度は文字の上に文字を重ねていくんです。結果、ノートは真っ黒になる。いま思えば、自分が無意識のうちに出したSOSだったっんだと思います。
津田:じゃあ、それをお母さまが見つけて「ちょっと病院に」みたいなことに……。
加賀谷:ならなかったですね。母親はかなり心配してくれましたが、まだ小学生だったし当時は精神疾患の情報がいまほど多くなかったですから。自律神経の問題じゃないかって、鍼灸院とかに連れて行かれました。それはそれですごく気持ちよかったですけど。
津田:本格的なメンタルな問題であったとすると、鍼治療じゃ限界ありますよね。勉強で疲れてるのかな、くらいの感覚だったんですね。となると、その後、症状が悪化していった……?
加賀谷:まさに。いまもはっきり覚えてるんですけど、あれは中学2年の1学期の終わり頃のことでした。僕、真面目だったんで、授業中はいつも教室の一番前の席に座って先生の話を聞いてたんですよ。ある日、授業が始まってすぐ、先生が僕の真後ろに座っていた女の子に注意したんです。「おい◯◯、なんでそんなにふてくされた顔してるんだ」って。「どうしたんだろう」と思って後ろを振り向くと、その女の子が下敷きで自分の顔を扇いでました。すごく暑い日で、当時は教室にエアコンもないですから別におかしな行動ではなかったんです。でも、それを見た僕は「自分が臭いから」だと思い込んでしまった。
津田:それは……妄想というか想像力が働きすぎてしまった?
加賀谷:それだけなら良かったんですけど、数分後に今度は後ろのほうに座っていた別の友だちの声が聞こえてきたんです。「加賀谷、臭いよ」って、ヒソヒソ声だったけどはっきり聞こえた。
津田:被害妄想だけじゃなく、幻聴が聞こえたんですね……。
加賀谷:そうなんです。でも、「臭い」と言ったのがだれの声かもわかったので、僕にとっては幻聴でもなんでもなくて現実なんですよ。それでその友だちのほうを振り返ってみたら、普通に先生の話を聞いてるんです。僕を気にしている素振りもない。
津田:でも、加賀谷さんのなかでは、リアルな声が聞こえている。
加賀谷:はい。それまでは学校でも明るいキャラで通してたんですけど、以来、どんどん暗くなって完全に塞ぎこんでしまいましたね。臭くてごめんなさいって、自分を責めるようになりました。
松本:ここで統合失調症をご存じでない方に説明させていただきますと、まずひとつには陽性症状といって、加賀谷が経験したような過度の妄想や幻聴、それからあまり多くはないんですけど幻覚や幻視があります。もうひとつ、陰性症状――落ち着いているときの症状として、たとえば感情の平坦化であったり記憶力・集中力の低下、対人恐怖、話がまとめられないなど本当にさまざまなものがある。幻聴や幻覚といった症状が出ない人もいるので、一概に「統合失調症ってこんな病気」だとは言えないんですね。
加賀谷:そうですね。僕も自分が経験したことしか話せないので。
津田:だからこそ治療がむずかしいという側面もあるんでしょうね。では加賀谷さんの場合、中学生の頃に症状を自覚し始めて、実際に治療を始めるのはいつ頃になるんでしょうか。
加賀谷:高校に進学してから思春期精神科のクリニックに通い始めます。でも、その間もずっと幻聴に悩まされていて、ある日学校で幻覚を見てしまうんです。校内を歩いていたら、廊下が急に波打って、僕を呑み込もうとするように迫ってくる。立っていられないくらい怖くて、もう学校へは行けないと思うようになりました。それをきっかけに、病院の先生に薦められてグループホームに入居することになったんです。グループホームというのは心の病を抱えた人たちが共同生活を通じて社会復帰を目指すための施設。16歳の僕が最年少で、30歳くらいまでの人が10人ほど一緒に暮らしていました。
津田:そこに入られて、症状に変化はありましたか?
加賀谷:グループホームはすごくゆっくりとした時間が流れる場所で、最初は3カ月の予定だったのが、半年が過ぎ、気がつけば一年がたとうとしていました。肝心の症状は、かなり改善されましたね。幻聴もまったく聞こえなくなって。16年間の人生で一番穏やかな時間を過ごせたと思います。
◇漫才師を目指してコンビ結成
津田:そのあと、どんな経緯で芸人を目指すことになるのでしょうか。キックさんと出会われたのはいつですか?
加賀谷:その時点で昔から父親と母親が望んでいた「いい高校・大学へ進んで、大企業に就職」みたいな人生設計からはドロップアウトしていましたから。それならとことん自分の好きなことをしてやろう! と思うようになったんです。僕は以前からビートたけしさんのラジオ番組「オールナイトニッポン」[6] が好きだったんですね。たけしさんがやっている漫才を僕もやってみたくて、オーディション雑誌に載っていたお笑い事務所に履歴書を送ったんです。
津田:おお、それはかなり行動的ですね!
加賀谷:そうしたらオーディションに呼ばれて、合格しちゃって。その事務所の同期としてキックさんと出会うんです。
津田:キックさんにとって加賀谷さんの第一印象はいかがでした?
松本:「なんなんだコイツ」と思いましたよね(笑)。明らかに挙動不審でしたし、普通に歩いてるだけなのになぜか「うーん、んん……」って桃色吐息みたいな呼吸してるんですよ。当時、僕は22歳で加賀谷はまだ17歳だったんですけど、それにしても変なやつだなぁ、なんなんだろうって、ずっと気になってはいたんです。
津田:その時点でキックさんは加賀谷さんが統合失調症であることはわからなかった?
松本:最初は病気のこととかグループホームにいたことをだれにも言わなかったんで。全部隠してたんですよ。
加賀谷:そういうことを事務所に知られたらクビになってしまうんじゃないかと思ってたんです。僕自身が病気に偏見を持っていたというか……。
津田:そんななか、ふたりでコンビ結成することになったわけですよね。最初に声をかけたのはどちらですか?
松本:僕からですね。ぶっちゃけ、同期のなかで漫才やりたかったのが僕と加賀谷だけだったんで自然とコンビを組むことになったんですけど、加賀谷は目立っていたし、面白いんじゃないかと思ったところもあります。
津田:加賀谷さんと一緒に活動するようになって、病気に気づくことはなかったんですか?
松本:全然気づかなかったんです。まぁ、挙動不審で落ち着きがないし、よく寝坊して遅刻をするやつだなぁとは思ってたんですけど。それが、ある日偶然、先輩が加賀谷の鞄に大量の薬が入っているのを見つけて。「なんだこれは」ということで、みんなで話し合うことになったんです。そこで初めて話してくれましたね。中学生のときに幻聴が聞こえ、高校で幻覚を見てしまったこと。グループホームで生活してたけれど、漫才がやりたくてお笑いの世界に飛び込んだこと。
津田:キックさんはそれを知って加賀谷さんとのコミュニケーションが変わった部分はありましたか?
松本:変わらなかったですね。そういうことがわかると「大変だ」と構えちゃう人もいるのかもしれませんが、僕は「ああ、そうなのか」と。それが加賀谷という人間のひとつの個性だと捉えたんですね。病気だろうとそうでなくとも、加賀谷は加賀谷である、と。いまもそのスタンスは変わらないです。
加賀谷:僕が言うのもなんですけど、統合失調症の患者に対してキックさんみたいにニュートラルな姿勢を貫くのってそう簡単にできることじゃないと思うんですよ。たぶんキックさんだからできたんだろうなと。というのも、僕も最近気づいたんですけど、キックさんはこう見えて天然なんですよ。
松本:お前が言うな!(笑)
加賀谷:いやいや、ほんとにこのまんまの人なんで。
津田:なんとなくわかります。2009年の復活ライブでも、キックさんの加賀谷さんへの眼差しが、かわいくてたまらない愛犬を見つめるような感じだったんですよ。あれは印象的でしたね(笑)。
松本:あ、でもそれ、あながち間違いじゃないですね。僕、加賀谷と出会った頃に「コイツはなんなんだ」と思って観察してたことがあったんですよ。で、ずーっと見てたら、なんか黒目がちだし加賀谷が犬に見えてきたんです。思わず「わんちゃーん」って声をかけたら、加賀谷がくるりと振り向いて「はいっ!」って返事して(笑)。それ以来、ずっと「わんちゃん」なんです。
津田:それはかわいい(笑)。
松本:携帯のアドレスも「わんちゃん」ですからね。
◇人気絶頂の最中、活動休止へ
津田:わんちゃんのエピソード、いい話ですね。そんなふうにコンビ間の信頼関係を築けたこともあってか、松本ハウスの名前は少しずつ知られていき、先ほどもご紹介した『進め!電波少年』や『ボキャブラ天国』の出演をきっかけにブレイクすることになります。そんな絶頂期の最中、1999年に活動休止を発表されたんですよね。当時僕もすごく驚いた記憶があります。
松本:当時、特に『ボキャブラ天国』はブームだったので、昔からライブで一緒だった芸人たちもみんな一斉に忙しくなったんです。これからみんなで切磋琢磨してステップアップしていこうというところだったのですが、やはり忙しさがネックになりまして。
加賀谷:人前に出る機会が増えるにつれて、症状が良くなっている気がするようになったんです。それで、服薬コンプライアンス [7] といって薬の量や服薬頻度などのルールがあるのですが、僕はそれを守らなくなっていったんです。どんなに人気者になっても、薬を飲んでいることに対する劣等感や罪悪感はつきまといますから、できれば薬はやめたいんですね。「今日は薬を減らしても大丈夫かな?」「大丈夫だった!」とやっているうちに、精神状態がドーンと悪くなって、急いで大量の薬をのんで……みたいなことを繰り返してました。そうしてどんどんアップダウンが激しくなっていったんです。
津田:それに加え、仕事が増えると分刻みのスケジュールで動かなくちゃいけなくなって、生活のリズムも壊れていきますもんね。
松本:そうですね。あの頃の僕らの生活はめちゃくちゃでした。
加賀谷:最初は不眠だけだったのが、そのうちに感情がうまくコントロールできなくなってしまったんです。寝たいのに寝れず、ひたすら涙をボロボロこぼしていたりとか。
津田:その頃、キックさんは加賀谷さんの様子を見てなにか気づくことはありましたか?
松本:いや、まったく気づかなかったですね。周りの人間もみんな忙しさで疲れてましたから。たとえば仕事で楽屋に集まって、加賀谷だけがいきなりゴロンと横になったりしても、疲れてるんだなと思って「いまのうちに寝といたほうがいいよ」と言うくらいで。
加賀谷:僕、具合の悪いところは絶対にキックさんに見せないようにしてたんです。
津田:「キックさんには見せまい」という思いがまたプレッシャーになって、精神的に追い詰められていたんですね。
加賀谷:そうですね。だからこんなこと言うのも恥ずかしいんですけど、『ボキャブラ天国』とか『進め!電波少年』が順調だった頃に何度か自殺未遂してるんですよ。薬の飲み過ぎ――オーバードーズで。睡眠薬を200錠以上も衝動的に飲んでしまうんです。普通はそんなに大量の薬を飲むときは砕かないと吐いてしまうらしいんですけど、僕は健啖家 [8] なんで、もうペロリと。
松本:食い意地張ってるだけやろ!
加賀谷:そう、だから吐き出すこともなくそのまま飲んでコテーンと卒倒しちゃうんですよ。で、なぜか翌朝パッと目覚めて「あ、今日はキックさんとライブするんだ」って会場まで行って練習や本番をこなすんですけど、帰ろうとして初めて頭がガンガン割れそうに痛いことに気づくんです。これがまた経験したことのないようなものすごい痛みで、「ヤバい、これは死ぬ!」と思って急いで家に帰ったり。
松本:もともと死のうと思ってたくせに命が惜しくなってるやん(笑)。
加賀谷:そりゃあそうですよ。水がぶがぶ飲んでね。
松本:まぁ、当時はそれくらい感情のコントロールができてなかったみたいですね。
津田:それでもステージの上ではきちんと漫才ができていたんですか?
松本:統合失調症に罹っている人のなかには、短時間であればかなりの集中力を発揮できるという人もいるんですね。加賀谷はそのタイプだったようで。
津田:だからこそ周りの人も気づかなかった……。そんな状況が続いているなかで「もう芸人を続けられない」と思ったきっかけはなんだったんですか?
松本:ちょっとおかしいなって僕が気づいたのは、遅刻が増えてきたからなんです。頻度も増えてくるし、遅れる時間も5分が10分に、10分が30分に……といった具合に少しずつ長くなってきて。それでも「なんか変だな」と思うくらいだったんですが、一方の加賀谷はちょうどその頃が最悪の時期で。一番重い症状である幻覚も見ていたみたいです。
加賀谷:そうなんです。当時、僕はマンションの4階に住んでたんですけど、ふと窓の外に目をやると、向かいのビルの屋上に人がいるんですよ。よく見ると、それはキックさんなんです。ずっとそこに立って僕の部屋を覗いてる。こっちはキックさんには具合の悪いところを見せられないと思ってるんで、身を隠して生活するんです。部屋のなかでは常にガタガタ震えていて、窓の前を通るときは四つん這いになって移動するという感じで。
津田:それはつらいですね……。最終的には自分でキックさんに伝えたんですか?
加賀谷:もう限界だと思って、まず母親に電話したんです。自分の身になにが起こっているかを正直に話すと、「ここで手を差し伸べないと取り返しのつかないことになる」と一緒に住んでくれることになって。当時の僕は相当にひどい生活を送っていたようで、しきりに「仕事を休んで入院したほうがいい」と薦められるようになりました。でも、僕にとっては「松本ハウスのハウス加賀谷である」ことが唯一の支えであり、居場所だったんです。それを手放すと人生が終わると思ってたので入院を拒否していたのですが、母親に説得されるうちに考え直すようになって。最後はその葛藤もできないくらいヘトヘトでした。
津田:それで活動休止することにしたと。まずは加賀谷さんが決心されたんですね。キックさんはどのようなかたちで報告したんですか?
松本:これは本の冒頭にも書いたシーンなんですけど、加賀谷は一人では来れないというのでお母さんとふたりで事務所の稽古場に来て、事務所を辞めるという報告を受けました。その間、加賀谷はずっと俯いていて、僕が話しかけても返事もなかったり、ぼそぼそとなにかつぶやくだけで声が聞こえているのかどうかもわからない、そんな状態でした。
津田:その報告を受けて、キックさんはなんと返事を?
松本:想像以上に症状が悪化していたので、僕としては加賀谷が決めたことを受け入れるしかないですよ。とにかく少しでも良くなってほしかったです。本人は病気が治ったらまた芸人としてやりたいんだろうなというのはわかったんですが、「待ってるから早く治せよ」とか「早く元気になれよ」とは言えなかった。絶対に焦らせてはいけないと思ったので。それで、「1年たっても2年たってもいい。5年後でも10年後でもいいから、芸人に戻りたいと思ったら言うてこいよ。そしたらまたふたりでやればええやないか」とだけ伝えました。
津田:おお……。
松本:そしたら本当に10年後に戻ってきたという(笑)。
加賀谷:めちゃくちゃいい話なんですけど、僕、そのときのキックさんの言葉をぜんぜん覚えていないんです。その話し合い自体が記憶から抜け落ちちゃってるんですよ。
松本:あの日の加賀谷には一切の感情がないように見えました。そのくらいひどい状態だったんだと思います。
◇いまできる「面白い」を追及する
津田:それから10年。長い闘病生活を経て、おふたりは2009年に復活されます。どんな経緯でコンビを再結成することになったんでしょうか。
加賀谷:事務所を辞めたあと、僕が入院したのは7カ月だったんです。その後、数年間は自宅療養だったんですけど、飲んでた薬の副作用がしんどくて。人と話してても自分の顔の周りに膜が張ったような感覚で、水中でボワンボワンと音が響いているような……声は聞こえるんですけど、クリアでないというか。それで引きこもりみたいな生活を5年くらい続けていたある日、新薬の評判がいいということで試してみることになったんです。そうしたら、その薬との相性が良かったんでしょうね。どんどん症状が緩和されていったんです。顔の周りにあった膜もなくなって、周りの音もクリアになって。
松本:その薬と加賀谷の相性が良かったのは「たまたま」なんですけどね。同じ薬を飲んでも効果がなかったり、副作用で苦しんでいる人もいらっしゃるので、当事者の方には主治医の先生とよく相談して決めてほしいです。
加賀谷:そうですね。とにかく僕の場合は具合が良くなったことで、入院した頃から胸に秘めていた「芸人として復活したい」という思いが一気に大きくなって。まずは社会復帰に取り組み始めて、キックさんとも会うようになって、復活を目指すようになったという感じですね。
津田:実際に加賀谷さんから「復活したい」と聞かされたとき、キックさんはどんなお気持ちでしたか?
松本:最終的には加賀谷から電話で「もう一度コンビを組みたい」と伝えられたんですけど、そのときもまず最初に考えたのは「焦らせてはいけない」ということでした。症状が改善しているのは知っていたものの、電話口で感極まってうわーっと泣き出したので、とにかく落ち着かせて。で、よくよく話を聞くと、また芸人がやりたいと言う。でも、すぐに「じゃあやろうか」とはならなかったんです。軽い気持ちで復活して、また症状が悪化してしまったら僕には責任が取れないですから。結局は加賀谷の人生なので、本人がどこまで本気なのか、どれだけ覚悟しているのかが知りたいと思いました。それで、後日予定していた僕のトークライブに素人としてゲスト出演しないかと提案したんです。そうしたら加賀谷も引き受けてくれて、ライブ当日、もう本当に汗だくになりながらお客さんを笑わせてるんですね。それを見て「あ、これだったら大丈夫。もう一度一緒にやっていこう」と思いました。
津田:やる気の伝わるパフォーマンスを加賀谷さんが見せてくれたと。
加賀谷:僕ね、汗かきだからすぐ汗かいちゃうんですよ!
松本:あのときの汗はやる気の表れじゃなくて体質かよ!
津田:まあ、それで復活が決まったわけですからいいじゃないですか(笑)。ただ、コンビを再結成してからのこの4年でまた新たな苦労があったのではないかと思います。
松本:そうですね。復活したからといってすべてがうまくいくわけじゃないですから。加賀谷は昔と比べて感情が平坦化していたし、記憶力も低下していたので台本がなかなか憶えられない。なにより良くなかったのは、僕らがふたりとも昔の加賀谷を追いかけてしまったことなんです。
加賀谷:僕も、またお笑いさえやればなんとかなると思っていたところがありました。自分のなかのハウス加賀谷像がすごく巨大化して、天才芸人みたいになっちゃってて。
津田:昔は時速150キロの速球が投げられたんだけど、いまは130キロしか出ないと。そうすると投球術そのものを変えないといけない、みたいな。
松本:ええ、そういうことなんですけど、どうしても「昔はできたのに」という記憶に足を引っ張られてしまう。「あの頃と同じことができるはず」なんて考えてしまってなかなかうまくいかなかったんですけど、あるときハッと気づいたんです。「いまの加賀谷はいまの加賀谷でいい。いまできる面白いことを追及すればいいんだ」って。これ、頭では理解できても体中に染みわたるまでに時間がかかるんですよ。再結成から2〜3年はかかったんじゃないかな。
津田:なるほど。そうして再結成4年目を迎えられたわけですね。これからもおふたりでさまざまなことを乗り越えていくのだと思います。では最後に、かつての加賀谷さんと同じように心の病で悩んでいる方たちに、なにかメッセージがあればいただけますか?
加賀谷:僕の場合、お笑い芸人の活動を休止して10年後に復帰するというわかりやすいかたちだったのですが、この10年という期間を長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだと思うんです。ただ、ぼくにとっては必要な10年だった。もっと長い時間をかけて治療してもなかなか具合がよくならないという方も知っていますが、焦らなくていいんです。「俺は統合失調症だから」と腐ってしまったり、諦めたりするのは絶対にやめてほしい。それだけはお願いしたいですね。
津田:焦らずに時間をかけて治療して、そして腐らない、あきらめない。これは決して他人事ではなくて、だれもが加賀谷さんと同じ統合失調症のような病気に突然なってしまう可能性だってあるわけですからね。
加賀谷:そうですね。100人にひとりの割合で罹る病気だと言われています。
松本:僕たちが本に書いたようなことや今日お話ししたことって、じつはだれにも起こりうる身近な話なんです。それを知ってもらえたらうれしいですね。
▼松本ハウス(まつもとはうす)
1969年三重県出身の松本キックと、1974年東京都出身のハウス加賀谷によるお笑いコンビ。1991年に結成し、『タモリのボキャブラ天国』や『進め!電波少年』などのテレビ番組で人気を博したが、1999年に活動休止を発表。10年後の2009年に活動を再開し、現在もテレビやラジオ、ライブなどで幅広く活躍する。2013年には初めての著書『統合失調症がやってきた』を出版し、さまざまなメディアで絶賛された。
ウェブサイト:http://projectjinrui.jugem.jp/
ツイッターID:@matsumotohausu
- [1]
- http://www3.nsknet.or.jp/~shimizuk/vocabula.html
- [2]
- http://www.nitteleplus.com/program/variety/denpa.html
- [3]
- http://natalie.mu/owarai/news/22301
- [4]
- http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/478160899X/tsudamag-22
- [5]
- http://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/detail_into.html
- [6]
- http://www.allnightnippon.com/
- [7]
- http://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E8%96%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B9
- [8]
- http://kotobank.jp/word/%E5%81%A5%E5%95%96%E5%AE%B6
最終更新: 2014年1月25日