石巻日日新聞が6枚の手書き壁新聞に込めた「報道にかける思い」とは(津田大介の「メディアの現場」vol.22より)
津田マガ記事
(※この記事は2012年2月22日に配信された記事です)
◆石巻日日新聞が6枚の手書き壁新聞に込めた「報道にかける思い」とは
(1月17日 J-WAVE『JAM THE WORLD』「BREAKTHROUGH!」より)
出演:武内宏之(「石巻日日新聞」常務取締役報道部長)、高橋杏美(リポーター)、津田大介
企画構成:きたむらけんじ(『JAM THE WORLD』構成作家)
津田:津田大介がお送りするJ-WAVE『JAM THE WORLD』、続いては「BREAKTHROUGH!」のコーナーです。宮城県石巻市は3月11日14時46分に起こった東日本大震災で、震度6強という強い地震に見舞われました。[*1] 当時の状況について、同市で新聞を発行する石巻日日新聞 [*2] の報道部長、武内宏之さんにお話を伺います。地震が起きた瞬間、武内さん自身はどちらで何をされていましたか?
武内:弊社の2階にある報道部におりました。ちょうど仕事が一段落したところで、スタッフと一緒に昼食を食べて雑談していた時にあの揺れが……。ただ石巻は、三陸沖を震源とする震度4程度の地震は、年間通して結構あるんですよ。
津田:では、「いつもの地震かな」と最初は思った?
武内:いや、3月11日の地震はまったく違ったんです。まず下から突き上げるように「ドンッ!」と……。これは初めての経験で「30年以内に99%の確率で来る」と言われていた宮城沖地震だな、とすぐに感じました。
高橋:その時点で津波が来ることは想定していましたか?
武内:すぐにサイレンが鳴って「大津波警報」というアナウンスが流れ始めました。実は震災の1年前、2010年2月27日に起きたチリ地震では、石巻でも大津波警報が出たんです。その時は沿岸部道路の冠水と床上程度の浸水で済んだものですから、3月11日も「膝上くらいかな」という思い込みがありました。
津田:1年前のことが記憶にあったぶん、「たいしたことはないだろう」と思い込んでしまったわけですね——。
武内:今となっては、それがすごく悔やまれますね。
津田:日日新聞社屋の被害状況は、どのような感じだったのでしょうか?
武内:壁が落ちたり、社内の棚やパソコンが倒れたりする程度でした。津波は目の前の道路まで来ていて、乗用車もワンボックスカーも、ものすごいスピードで流されていくのが見えました。でも社内は2センチ程度の浸水で済んだんです。
津田:それは社屋の位置が地形的にギリギリ助かったということでしょうか?
武内:実はその翌朝、被害状況を確認しようと周囲を歩いてみたら、会社から東に100メートルほど行ったところに10トントラックが2台重なって、道路を塞いでいたんです。そこに枯れ木や車が溜まり、防波堤のようになっていた。そのトラックがもしなかったら、会社周辺の一帯もダメだったんじゃないでしょうか。
津田:地震直後の電気や水道のインフラは?
武内:すぐに停電し、水も来なくなりました。
津田:では、被害状況はどうやって把握したのでしょう?
武内:報道部では電池式のラジオを備えていたので、情報はそこからですね。
津田:社員やそのご家族の安否確認はどのように?
武内:大津波警報のアナウンスが流れたあと、内勤の社員は近くの高台に避難させました。ただ報道部の記者6人は、地震のあと全員、すぐに現場へ飛び出していったんです。
石巻を大津波が襲ったのは、その約1時間後。6人とはまったく連絡が取れない状況になりました。地震から6日目には全員の生存が確認できたけれど、それまでは大変不安な日々を過ごしましたね。
津田:みなさんご無事で良かったですね。でも1週間近く、気が気じゃなかったんじゃないですか?
武内:4日目までに6人のうち5人とは連絡が取れていたんですね。ただ、あと1人がどうしても見つからなかった。よく「72時間を過ぎると生存率が急速に下がる」と言われますよね。そのタイムリミットは、とうに過ぎている。これはもう家族に報告をしないといけないかなと諦めていた時、いきなり会社にヒョコッと顔を出したんです。どうやら、迫力ある津波の写真を撮ろうと沿岸部で車を走らせていたところ、津波に巻き込まれたようで……。
津田:車ごと津波に飲まれてしまった?
武内:はい。津波に飲まれて車が沈みそうになっていた時、魚の水揚に使う大きな樽が偶然流れてきたそうなんですね。それで、そちらに乗り移ったと。さらに運良く小型漁船が流されてきたので、次はそっちに乗り移り、寒さをしのぎながら一夜を過ごしたそうです。そして翌朝、ヘリコプターで無事救助されて入院し、その後自宅療養して、6日目に社に戻ってきました。
津田:すごい……映画みたいな話ですね。
高橋:そんな大変な状況の中、石巻日日新聞では手書きの新聞——いわゆる「壁新聞」を3月12日から3月17日にかけて、6日間発行し続けましたよね。[*3] どのような経緯でこうなったのでしょうか?
武内:地震当日は津波が何度も押しては引いていて、20時頃になってそれがやっと落ち着きました。けれど、印刷の設備が一部水没して、輪転機が動かせない事態に陥ってしまったんです。そこで、社にいた社長を含む5人で、これからどうするかを話し合いました。その時、社長がこう言ったんです。「自分たちが住み、新聞を発行する地域がこんな状況になってしまった。にもかかわらず自分たちが何もしないのだとしたら、日日新聞の存在そのものを否定するようなものだ」と。戦時中には「一県一紙制」——「一都道府県につき、新聞社は一つ」と国が定め、新聞の統廃合を押し進めるという政策がありましたよね。これによって各紙が廃刊に追い込まれました。日日新聞はそんな中でも新聞を毎日発行し続け、やがて紙の配給が絶たれても、記者が家にあったわら半紙や模造紙を持ち寄って自分の思いを書き綴り、街中で配っていたという伝説があるんです。だから私たちも「紙とペンさえあれば仕事ができるんじゃないか」と思ったんです。「手書きの新聞を発行する」という方針は震災当日の夜、すでに固まっていました。
津田:紙はあったんですか?
武内:輪転機の上部に、新聞用紙のロールを設置していたんですね。これが濡れないで生きていたんです。あとはマジックフェルトペンを社内でかき集めて、黒・赤・青の3色を確保し、翌日に備えました。
高橋:編集方針はどのようにして決定したんですか?
武内:その時は瓦礫や車が道路に積み重なっていて、取材になんて行けない状況でした。おそらくは避難所にいる方たちも着の身着のまま逃げ出したはずなので、自分の家がどうなっているかもわからないだろうと。だったらまずは住んでいるこの地域が今、どんな状況にあるかをわかる範囲でお知らせするべきだということになりました。——でも、先ほども言ったように、当日の夜は記者が誰もいなかったんです。
津田:誰とも連絡がつかない状況だったと。
武内:携帯電話はずっと不通だったんですが、なぜか一度だけメールが着信したんです。それによると「記者3人で市役所にいる」と。市役所なら災害対策本部も設置されるから、なんらかの情報が取れるかな、という読みはありました。ただ車は動かせないし、移動できる範囲も限られているので、どれだけ情報が伝えられるかは不安でした。
津田:作った壁新聞はどちらに掲示したんですか?
武内:会社の目の前に高台があって、学校が建っていたんです。そこが避難所になっていたんですね。まずはスタッフがそこに壁新聞を持って行き、ガムテープで張り出しました。
津田:印象に残った読者の反応なんかはありますか?
武内:私は社内で待機していたのですが、壁新聞を実際に張り出した人間から聞いた話によると、街中はまだヘドロがすごくて、靴の上にゴミ袋を履き、根元をガムテープで巻いて避難所まで行ったようです。壁新聞を張り出そうとした時、誰かが「新聞だ」という声を上げたそうなんです。するとその瞬間、わーっと人が群がってきて、張り出すのもままならなかったという話でした。
高橋:あれから9か月以上が経ちました。街の復興を間近で見てきて、どんなことをお感じになりましたか?
武内:震災直後はヘドロやがれき、山積みの車が街中に溢れている状況でしたが、自衛隊や多くのボランティアの方々のおかげで、あっという間に道路が通れるくらいになりました。こうなるまでは本当に早かったですね。直後の惨状から比べれば、ここで地震があったとは思えないほど、街はきれいになりました。ただ、被災された方々のメンタル面のケアが今気がかりですね。目に見える部分の多くは復興してきたかもしれませんが……。
津田:僕も陸前高田から気仙沼まで海岸線の被災地を回って見てきましたが、石巻で特に印象的だったのは「臭い」なんです。他の地域に比べて、強烈な臭いが立ちこめていたんです。この前の7月に来た時もまだ相当ひどかったですね。
武内:石巻は年間通して200種類もの魚が水揚げされる市場で、被災地の中ではかなり大きい港町でした。今回の震災で中小合わせて200社ほどが被災し、各社がストックしていた冷凍魚が停電で腐ったんですね。水産業者とボランティアの皆さんが処理してくれたんですが、魚の腐った強烈な臭いは8月くらいまで漂っていました。だから、夏なのにマスク姿の通行人が多かったんですよ。それが私の記憶に残っている光景の一つですね。ハエも大量に発生していたので、衛生的な心配もしながら毎日生活していました。
高橋:将来に向けた防災対策には何が必要だと思われますか?
武内:今回、石巻にもたらされた被害は、9割以上が津波によるものでした。隣町の女川では、4階建てのビルのてっぺんに車がのっかってしまうほどの波でしたから、人間なんてひとたまりもない。警報や注意報を耳にしたら、とにかく高台へ逃げること。これが大切だと思いましたね。ただ今回は皆さん車で逃げようとしたために道路が渋滞し、そのまま波に飲まれてしまった方も多かったんです。地域によって道路を取り巻く状況も違うでしょうから、避難ルートをあらかじめ考えておくことも大切だと思います。
津田:それは重要ですよね。今回も津波が来るまでに1時間程度は猶予があったわけだから、ふだんから避難ルートを考えていれば逃げられたかもしれない。
武内:「自助・互助・公助」という防災用語があります。まずは自分の身を守り、次はお互いに助け合い、そして最後に公助——いわゆる消防や警察が来る。本当にその言葉のとおりで、119番や110番をしても、今回の状況では緊急車両なんて来られませんでした。自分や家族をどう守り、地域の人たちとどんな協力体制を築き、公助が来るまでどう生き抜くか。これは常日頃から家族や地域の人たちと話し合っておく必要があります。
津田:日日新聞さんとしては、メディアが非常時に取っておくべき対策について、どのようにお考えですか?
武内:今考えてみると、本当に恥ずかしながら、対策をまったく取っていませんでした。記者は今回のような緊急時こそ現場に行かなければなりません。しかし、記者といえども人間です。自分の身を守って初めて、地域の人にニュースが伝えられるわけです。私たちも企業として、新聞社として、記者として、改めて対策を練らなければいけないと痛感しました。
津田:地元企業も一般読者も被災しているという非常に厳しい状況です。発行部数や広告収入はどう変わりましたか?
武内:震災前は石巻市、東松島市、女川町などのエリアで、1万4000部を発行していました。部数については震災後、読者のお宅を一軒ずつ訪ねて確認を取り、9か月目にあたる今月で7500部まで回復しています。しかし全収入のうち、多くの割合を占める広告収入については、営業を再開した企業がまだごくわずかだということもあって、「回復」と言うにはほど遠い状況です。
津田:というと、経営的にはこのままでは厳しい?
武内:そうですね、厳しい状況ではあります。しかし「日日新聞が残れば石巻も残る」と信じていますし、「どうしても残さねばならない」と社内のスタッフにも言っています。地域が回復するまでには、まだしばらく時間がかかるでしょう。私たちがそれまで、どのようにして仕事を続けていくかが大きなテーマです。
津田:この番組で日日新聞さんを知って、「支援したい」と思っている方がいるかもしれません。その場合にはどうすればよいでしょうか。
武内:「日日新聞が残れば石巻も残る」というのは反対から見れば、「石巻が回復して元気になれば日日新聞も元気になる」ということです。ですから、もし私たちを支援したいと思ってくださるのなら、この街を支援してください。どうぞよろしくお願いします。
[*1] 宮城県石巻市をはじめとする被災地の支援状況については、今年に入ってから本メルマガで調査を行い、vol.18で結果を発表している。
[*2] http://www.hibishinbun.com/
[*3] この壁新聞は国立国会図書館によってデジタル化されており、ウェブ上で閲覧できる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2623226
実物は現在、アメリカのワシントンD.C.にある報道博物館「Newseum」(http://www.newseum.org/)に永久展示されている。
http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011041501000459.html
また、壁新聞をめぐる話は『6枚の壁新聞』(角川SSC新書)というタイトルで2011年7月9日に書籍化された。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047315532/xtcbz-22
この3月6日には、日本テレビ系列で『3.11その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞』と題したドキュメンタリードラマが放映される予定となっている。http://www.oricon.co.jp/news/movie/2006964/full/
▼武内宏之(たけうち・ひろゆき)
1980年、石巻日日新聞に入社。警察、消防、水産、農業、行政を担当した後、2003年、編集局長代理に就く。2004年に編集局長となり、2005年に社内機構改革で取締役報道部長となる。2006年、常務取締役報道部長に就任し、現在に至る。
最終更新: 2012年2月22日