日本の「科学コミュニケーション元年」は近い? ——3.11、iPS誤報問題で変わる、科学とのかかわり方(津田大介の「メディアの現場」vol.51より)
津田マガ記事
(※この記事は2012年10月24日に配信された記事です)
今年10月、「世紀の誤報」だとして世間を騒がせた、森口尚史氏をめぐる「iPS誤報問題」。この問題によって、日本のメディアの科学リテラシーの低さが浮き彫りになりました。一見、私たちの生活にはあまり関係ないように思える科学報道ですが、3.11以降の原発報道などで、科学技術の知識が行政や専門家、メディア、そして国民の間で共有されておらず、混乱を招いたことは周知のとおりです。理想的な科学報道のかたちと、それに必要不可欠な科学コミュニケーションの役割とは? 今回は、科学技術ジャーナリズムを専門とし、早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコースで僕と共同で「Webジャーナリズム」の授業を担当している田中幹人准教授(@J_Steman)にお話を伺いました。
=======================================
◆日本の「科学コミュニケーション元年」は近い?
——3.11、iPS誤報問題で変わる、科学とのかかわり方
津田:まず、今回の森口尚史さんをめぐるメディアの動きを整理すると、イントロは10月11日。読売新聞が朝刊一面で「森口さんらハーバード大のチームが、iPS細胞から作った心筋の細胞を6人の心不全患者に移植した」と報じて、共同通信、日本テレビ、産経新聞も「iPS細胞を使った世界初の臨床応用」と続きましたが、実はこれが虚偽だった。[*1] だからいずれも「ごめんなさい」した。[*2] そして、共同通信からニュースの配信を受けている全国の数多くの新聞社も、図らずも誤報をやらかす [*3] ことになってしまったものだから、その中の一つ、東京新聞も「共同配信の記事だけど、本紙も掲載した責任は免れない」と社説で謝罪 [*4] しましたね。
田中:その一方で、NHK [*5] と朝日新聞 [*6] は「オレたちにも森口さんから売り込みはあったけど、ダマされなかったぜ」と発表しましたね。
津田:またその一方で、日本経済新聞は「実はウチは2009年に森口さんを取り上げていたんだけど、その記事の中にも誤りがありまして……」という検証記事まで出したという……。[*7] 田中さんはこの一連の騒動をどうご覧になりましたか?
田中:読売、共同のことをいったんさておくなら、NHK、朝日あたりが「オレたちは引っかからなかったよ(キリッ」とやっているのがちょっと気になるんですよね。釣られなかったのはエラいんだけど、そのことばっかり言われるとね……。
津田:「『読売と共同は誤報したけど、ウチはしなかったぜ』って、そんなことわざわざ記事にすることじゃねぇだろ!」ってツッコミたくなりますよね(笑)。
田中:あともう一つ、朝日に「森口さんは流動研究員的な立場だから」「身分が定まっていない人だから」というニュアンスの記事 [*8] がありましたよね。実際、ネットなんかで科学者に叩かれましたけど、あれは非常に“新聞的”な世の中の見方なんですよ。
津田:権威主義的なうえに、誤りでもある。客員や特任の学者たちが重要な研究をしている事例は山ほどあるのに、「プロパーで何十年も研究している学者こそがエラい」という、いかにもエリート主義的な固定観念に縛られてる。
田中:あれこそが世の中が持っている科学者観なんだろうな、という気はします。実際には学者を含め、多くの科学関係者が、3年契約くらいで学校や研究所、部門から異動しなきゃいけない——それこそ派遣社員と同じような生活を送っている [*9] のに、その業態をメディアが全然拾えていないんです。「ポスドク問題」と報じられる [*10] ことはたまにあっても、それが科学の営みの一つとして、うまく結びついていない。
◇なぜ読売新聞は「誤報」を出してしまったのか?
津田:ただ、そういう批判もあるものの、朝日新聞やNHK、あと毎日新聞なんかは森口さんのウソに引っかからなかった。一方、なぜ読売新聞や共同通信は引っかかったんでしょう?
田中:それがすごく不思議なんですよね。もちろん、すでに各社が自省しているとおり、「基本的な確認ができていなかった」ということはその通りなのでしょう。ただ、いつも誤報をしているというわけではないので、普段はできているはずのものが、今回はなぜできなかったのか。それがはっきり見えてこない部分はあります。ちょうど誤報騒ぎがあった頃、慶應義塾大学医学部総合医科学研究センター特任准教授で幹細胞生物学者の八代嘉美さん(@Yashiro_Y)[*11] と一緒にいて、二人で「なんで引っかかったのかね?」なんて話をしていたくらいですから。ただ「読売や共同に限らず」という話であれば、いくつか理由を推測することはできます。まず、今回引っかかったのは、読売新聞つくば支局の記者ですよね。経験はあったけれど、iPSの分野には不慣れだった。そういう、ある分野に慣れていない記者が「スクープかな?」と思って、科学者の売り込みやニセ学者の話に乗っちゃうことは実はよくある話なんです。本来なら、どの分野のニュースであっても「売り込み」は疑ってかかるべきなのですが……これは大手四紙すべてに言えることですね。ご存じのとおり、新聞社に記者職で入社すると、まずは地方の支局に回される。そこで取材活動をしていると、結構な頻度で「町の発明家が永久機関を発明しました」的なネタを拾っちゃうんですよ。[*12]
津田:あはははは!(笑)
田中:記者は新人のうえに、所属するメディアはいわゆる文系社会で、科学教育を受けている確率は低いですから。で、地方支局発の地域面の記事ということもあって、特に科学部のチェックも入らずに「町のちょっといい話」として扱われるわけです。「昨今取り沙汰されているエネルギー問題を解決すべく、○○町のおじいちゃんが頑張っていろいろ発明しました」みたいに。その実、科学者から見ると「いや、それ永久機関だろ!」っていう代物だったりするわけですけど、まぁ、新聞には載ってしまう、と。
津田:ある意味、そういうレベルの記事ならあまり問題にはならないわけですよね。あくまで「ほほえましい町ネタ」として消費されるだけで、社会的影響がほとんどない。
田中:ええ。ただ、「放射能を分解するEM菌」とか「血液型占い」なんかになると、潜在的な危険はありますけどね。前者の場合、高い濃度の放射性核種に汚染されてしまった地域では、当たり前の対応をしていれば問題ないのに、畑に撒いたEM菌を信じて自分で作った作物を食べている人は内部被ばくしてしまいます。[*13] 後者の血液型占いは、本気で信じている経営者なんかが、従業員をリストラする際の基準にしちゃったりしていますから。[*14] こういったネタは「不慣れな分野のもっともらしく見える話題」を信じた記者が記事にするのですが、森口さんの一件は、その「デカい版」——地続きの話とも言えるんですよね。
津田:「デカい版」である以上、今回の場合は、しかるべきチェックを受けるべきだったと。ただ、読売の第一報はつくば支局の記者に加えて、東京科学部と大阪科学部の記者の連名になっていた——つまり、「専門部局」である科学部を通しているんですよね。それでもウソを見抜けなかった。
田中:それが推測される2つめの理由なんです。これも推測ですが、科学部の記事が一面トップを取れることなんて滅多にないので、科学部も、はやったというか、チェックが甘くなったというのもあるんじゃないですかね。もちろんダメなことなんだけど、メディアを知っている人間からするとすごくわかりやすいし、同情できなくもないじゃないですか。
津田:ええ。記者やジャーナリストをやっている以上、スクープをものにして、他社を出し抜きたいという気持ちは絶対に生まれますよね。
田中:山中伸弥先生がノーベル賞を受賞した直後で、祭りの余韻というか、メディア内部にそういう基底和音があったんだろうな、という気がしています。そして、共同通信なんかの場合は、文字どおり後追い。特オチ——ほかのメディアがこぞって取り上げているのに、自メディアだけが報じない状態を恐れるあまり、読売が飛び出したのにつられて、自分もスタートしてみたら「あれっ!? 飛び出したのオレたちだけ?」「もしかしてフライング?」っていう状態だったんだと思います(笑)。
津田:もう一つ「森口さんはどこまで本気でウソをつき通す気だったのか?」という疑問もあります。今回、彼が発表した臨床応用って個人ではなく、共同研究になっているじゃないですか。だったら、共同研究者に取材すれば一発でウソを見抜けたはずだし、事実、10月12日には共同研究者として名前を挙げられていた医師が「そんな事実はない」とコメントを出している。[*15] まあ、読売や共同については「スクープを狙うあまり、共同研究者への取材をすっ飛ばしたのかな?」「森口さんや識者に対して『検証材料をもってくるから、質問に全部答えてくださいね』なんてやってるヒマはなかったのかな?」「森口さんを信じすぎたのかな?」という気もするんです。でも、森口さんのほうがわからない。彼はなぜ「共同研究者がいる」なんてすぐにバレるウソをついたんでしょう?
田中:ある意味、科学部の記者と同じような気持ちだったんでしょうね。森口さんも森口さんで、自分たちの研究が新聞の一面を飾るようなおおごとになるとは思っていなかった。
津田:「新聞に載ったらいいな」くらいのノリで売り込んでいたら、山中さんのノーベル賞受賞の影響もあって、iPS細胞が新聞一面をにぎわすような大ネタになってしまった。そして、列挙した共同研究者から否定のコメントが届いてしまった——そんな感じでしょうか。
田中:ですね。2ちゃんねるでも「森口、もういい……休めっ!」[*16] と書かれるなど、痛々しいという視点で語られていましたけど、森口さんにしてみたら、わけもわからずマイクなんか向けられちゃって、一世一代の大舞台に上げられてしまった——そんな感じだったんじゃないですか。彼自身、それを望んでいたのかもしれないけれど。ただ、共同通信はiPS関係の一流の研究者、まさに心臓への応用も視野に入れている研究者に事実確認をしているらしいんですよね。
津田:なのになぜ、後追い誤報をしたのか——。
田中:僕がもしiPS細胞の研究者だったとして、新聞社や通信社から「世界初のiPS細胞の臨床応用が海外で行われたらしいんですけど」という連絡をもらったら、きっと囲み取材を受けた時の山中さんと同じリアクションをしたと思うんですよ。「えっ、本当なの!? 本当だったらスゴいことだけど、詳細を把握していないから、ちょっと私にはわからないなぁ」と。これは逃げでもなんでもなくて、ただ単に「本当にわからない」から、そう言わざるを得ない。きっと共同通信の取材を受けたセカンドオピニオン、サードオピニオン的な専門家も同じ反応をしたんだと思います。共同の記事を読んでみると、そんなコメントを受けての雰囲気——「これはうさんくさいなぁ」という嗅覚が働いているようにも見える内容になっていますから。
津田:「決して全部を信じたわけじゃないよ」という内容になっていた?
田中:ええ。森口さんの発表についてひととおり書いたあと、セカンドオピニオン、サードオピニオンの「わからない」というコメントも添えている。「他紙も読売の後追いをするかもしれないけど、ウチは違うぜ。ちょっと引き気味のスタンスだから」っていう体裁にはなっているんです。だから、もし森口さんの件を新聞各紙が報道していたら「共同は比較的懐疑的だった」という評価すら受けていたのかもしれない。結果的に、フライングしたのは読売と共同だけだったわけですが。
◇科学報道をめぐるメディアの問題点
津田:裏取りや専門家取材という話だと、田中さんも2008年に『iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?』という書籍を出されています。[*17] もともと科学者だった田中さんもこの問題の「専門家」であり、その後大学で科学技術報道について研究されているという希有な立場でもあるわけですが、この件で、田中さんのところに取材のオファーはなかったんですか?
田中:ある新聞からありましたよ。「森口事件について研究なさってますか?」と聞かれたので「今回のことについては特に研究するようなことはありません」「この先も研究はしないと思います」って答えました。というのも、森口さんの一件ってはっきり言ってショボいんですよ。
津田:ショボい?
田中:情けない話だけれど、この手の論文捏造って科学の世界では珍しくなくて、森口事件のひな形ともいえる上に、もっと大きな事件に発展したものも少なくないんです。たとえば有名なのはシェーン事件。[*18] これは現在、Eテレの『すイエんサー』[*19] などの番組を手がけているNHKのプロデューサー、村松秀さん [*20] が2006年に書いた『論文捏造』(中公新書ラクレ)[*21] という新書でも取り上げられています。2000年、ドイツの元物理学者、ヤン・ヘンドリック・シェーンという人が、一見すると画期的な手法を打ち立てて、それまで9年くらい破られていなかった超伝導の臨界温度の最高記録をあっさり塗り替えたという論文を発表したんです。「これはスゴい」ということになり、世界中の科学者や研究機関が何十億円、何百億円もの予算を投じて検証実験を繰り返しました。しかし2002年になって、実はその高温超伝導の論文は、すべてシェーンが捏造したものだったと発覚した大事件があったんです。
津田:何百億もの無駄金や多くの人の労力が失われていない分、森口さんの一件は罪が軽いとは言わないまでも、ショボいというわけですか?
田中:そうです。大規模な銀行強盗とピッキング騒ぎの違いというか。また、より深刻な被害を生んだものに、「マスコミが作り上げ、マスコミが騙された」黄禹錫(ファン・ウソク)事件というのもあります。[*22] 2004年、韓国の獣医学者、黄禹錫がヒトクローン胚から胚性幹細胞(ES細胞)の作製に成功したと発表したものの、その論文はすべて捏造だったことが2005年に発覚した。こう言っちゃうと悪いんですけど、韓国社会にはノーベル賞コンプレックスがあって、科学の世界に対しても「いつ、誰が獲るんだ?」という強いプレッシャーがあるんです。そこにヒトクローンでES細胞を作ったという黄教授が現れたものだから、政府もメディアも「これでノーベル賞を獲れるぞ」と色めき立ってしまった。[*23] 日本で言えば文部科学省に相当する韓国科学技術部は、黄教授を「最高科学者」第一号に認定し、メディアも彼を国家のヒーローに仕立て上げたんです。そして、日本ではあまり報道されていないんですけど、韓国国内ではそうしたフィーバーの影響も手伝ってか、まだ検証が済んでいない幹細胞治療を脊椎損傷の患者に適用しちゃっている。その患者さんは一時的には「立てるようになりました」と報道されていたんですけど、それはプラシーボ効果だったのか、結局、症状は以前よりもヒドくなった。車イス生活だったのが、寝たきりになっちゃったらしいんです。
津田:それに比べれば、森口さんの件は臨床例がないのにでっちあげたという意味では、被害者はゼロですよね。本人は「5例はウソだけど、1例は本当。実際に臨床応用した」と主張していますが、[*24] その部分についても怪しいですよね……。
田中:加えて、捏造に対するメディアの感度の鈍さも韓国に似ているからこそ、森口さんの件については「何を今さら」という気がするんですよ。黄禹錫事件ではヒトクローンES細胞を作製したことに「画期的だ」という注目が集まったわけですけど、正直な話、クローン胚作製の技術そのものは、2004年までにとっくに確立されていたんです。1996年には英国のイアン・ウィルマット博士がクローンヒツジのドリーを誕生させているし、それ以前からカエルによる実験などが進められていた。それから、これは黄禹錫さんの発表の中で唯一の事実だったんですけど、彼はイヌクローンを生み出していたし、そのほかサルでの成功例があるとも言われていた。あとは「ヒトでやるか? やらないか?」というだけの話であって、別段、ノーベル賞レベルの画期的な発見や実験ではなかったんです。世界的には「ヒトでもクローンはできるだろうけど、倫理的に問題があるし、そもそもほかのクローン技術も病気治療にはまだまだ応用できてないのに、ヒトクローンを無理に作る必要はないよね」「新しくES細胞を作るのは、将来ヒトになる受精卵を潰す=殺すこととも解釈できるから、しばらくは今までに作ってしまったES細胞だけで実験しよう」という雰囲気だった中、黄教授が「やった」と発表しただけ。だから、バイオ業界的には「えっ、韓国はヒトでやっちゃったの?」っていう感じだったんですよ(笑)。
津田:にもかかわらず「ノーベル賞」というキーワードに煽られて報じてしまっているあたり、構図としては森口さんの件に似ていますね。
田中:しかも、生物学の世界には伝統的に、必要ならば遺伝子やクローンの取り扱いについて研究の手を止めて、きちんと取り決めようという雰囲気がまだあるんです。1975年、遺伝子組み換え技術が確立されたことを受けて150人前後の科学者が「アシロマ会議」[*25] というのを開いたんですね。そこで、遺伝子に安易に触るのは危険かもしれないからと、研究のガイドラインについて議論するために、いったん研究をストップしているんです。だから、多少科学的素養のあるジャーナリストなら「そういう経緯がある中で、黄教授は本当にヒトクローンを作ったのか?」という疑問を抱けたはずなんですよね。
津田:なるほど。となると、科学的素養のある人から見たときに、森口さんの発表やコメントにはどんなツッコミどころがあったんですか?
田中:科学以前に当たり前のことですが、臨床応用のセオリーとして、心臓のような失敗すると致命的な器官から始めることはありえません。万が一の時に比較的ダメージが少ない網膜などの器官に対して、ようやくiPS細胞を応用した治療が始まろうとしているところだった——そんな相場観があったのでピンときました。もう一つ引っかかったのは、読売新聞の取材に対する「親方日の丸じゃダメ」という森口さんのコメント。[*26] あれは山中さんがノーベル賞を受賞した際の「日の丸の支援がなければ受賞できなかった」[*27] という発言を意識した、ある種のルサンチマンから発せられた言葉でしょう。そこから「あっ、この人名前を売りたいだけかも」という推測もできたはずです。それに、この「親方日の丸」的発想自体にも問題がある。「日本ならいろいろな規制があってできなっただろう。このまま日本でやっても書類の山を溜めるだけだった」と、さも米国だから臨床応用できたような発言をしているんですけど、これもそんなに単純な話じゃないんです。
津田:確かに米国のほうが自由に研究できそうなイメージはありますけど……。
田中:少なくとも、森口さんがコメントしているようなことはないんですよ。日本ではほとんど報じられていませんが、オバマとロムニーの大統領選の争点の一つになるくらい、米国は再生医学研究の取り扱いには慎重です。[*28] キリスト教国ですから、「生命倫理的配慮が必要だ」という縛りが強いんですね。もしも何らかの実験をしたいのであれば、とにかく大量の書類を書かなければ、その研究機関の倫理委員会を通らない。しかも、人種的配慮など、日本よりもチェックされる項目は多いんです。仮に、最初に心筋iPS細胞を適用する患者が黒人ばかりとなれば、すぐに「人種差別の人体実験だ」と言われますから。つまり、「日本より米国のほうが臨床応用しやすかった」という言葉を鵜呑みにすることはできないんです。プラス「過冷却」という謎の技術を使っているあたりも、引っかかると言えば引っかかる点ですし。
津田:その「過冷却」という言葉に田中さんが引っかかったように、論文の内容自体に科学者から見て気になる点はなかったのでしょうか? 盗用があったんじゃないか、なんて指摘もありましたけど。
田中:英国の科学誌『ネイチャー』が、森口さんは山中さんやほかの人の論文を盗用していたのではないかと報じ、[*29] 日本のメディアも「もともと盗用するような人だった」というニュアンスで後追い報道していますけど、[*30] それもまたちょっと読みが甘いんですよ。実際に彼の論文を読み込んでみた八代さんに教えてもらいましたが、盗用があったとされているのは、論文というよりも「プロトコル(方法)」を紹介した報告——つまり、どのように実験を行ったか、その手法や手順を紹介するレポートです。ただ、方法というのは先行研究をもとに確立する面もあるので、難しいところですよね。まあ、ほかの論文と一言半句違わぬテキストになってしまっているのはどうかと思いますが……。
津田:森口さんが弁明しているとおり、同様の研究をしているなら、同様の言い回しを使わざるを得ない面もある、ということですね。
田中:だから『ネイチャー』の「丸々コピー&ペーストするのはいかがなものなの?」という指摘は正しいものの、国内メディアのように事の顛末だけを見て「もともと盗用するような人だから、ウソをついていたに違いない」と短絡的に結論づけることも危ないんです。ただ、『ネイチャー』の記事をもとに、森口さんのこれまでの研究のおかしな点を見つけることは不可能じゃない。その中には、ナマモノ——生物学者は細胞やネズミなどを用いた泥臭い実験のことをこう呼ぶことがあるんですけど——の世界に一度でも触れたことのある人なら、100%ゲラゲラ笑ってしまうようなポイントが一つあるんですよ。「うわっ! 森口さん、奇跡を起こしてる」って(笑)。
津田:えっ、どんな奇跡なんですか?
田中:森口さんのプロトコル——研究方法によると、パラホルムアルデヒド処理された細胞からiPS細胞を作っていることになっています。これは、わかりやすくいえばホルマリン漬けのことです。ただ、細胞はホルマリンに漬けると脱水されて死ぬんですよ。つまり、森口さんは死んだものを生き返らせる奇跡を起こして、そこからiPS細胞を作ってしまっている。なぜそうなったのかというと、まさに『ネイチャー』の指摘どおり、いろんな論文をコピペしたからなんでしょうね。細胞をホルマリン漬けにする手法を使って研究していた論文と、それとはまったく別のiPS細胞の論文を、一つの論文の中に盗用しちゃった。それで前後の整合性がとれなくなっているんです。そこに気づければ「この発表、信用ならないかも」「この人信頼できないな」と思えるんですけど、細胞に触れたことのない人——たとえば物理学者がこの方法、プロトコルを見て面白いと感じるかといえば、笑うのは難しい。まぁ、そもそもそんな報告を掲載しちゃっている側にも問題はありますが。
津田:なるほど……今田中さんにその説明を伺ってもド文系の僕は、まるでピンと来なかったです(笑)。当たり前の話ですけど。
田中:おかしいのは明白ですが、今、僕が指摘したことも後追いといえば後追いです。「怪しい」「捏造だ」と報じられて、そういう目で見てみたら確かに怪しかっただけなのかもしれない。ただ、それにしても、メディアは論文をあたってみるという作業をしていなかったんじゃないかな、という気はしますね。そして、論文にあたらないまま、再生医学研究の第一人者たちにコメントを求めちゃったから、その人たちもその場では「いろいろ引っかかりを感じるけど、事実ならすごいね」としかコメントのしようがなかった。
津田:歯切れの悪いコメントを受けたものの、メディアはスクープをモノしたい一心で「ノーベル賞受賞でiPS細胞が盛り上がっている今出さなきゃ、いつこの記事を出すんだよ!」とばかりに記事にしてしまった、と。
田中:それプラス、科学者の社会的な役割や見られ方の問題もあるのかな、という気もしますね。1949年に米国の社会学者、ロバート・K・マートンという人が、科学者の共同体の中で共有されているエートス、つまりは科学者という存在にまつわる5つの共有イメージの頭文字をとって「CUDOS」と呼んだんです。[*31] 科学者というのは、知識をお互いに共有して(Communialism)いて、科学知識は普遍的(Universalism)であると考えている。そして、自分の利害よりも科学という知識体系の利害のために働いていて(Disinterestedness)、お互いが建設的な批判の目を向け合っているものだ(Organized Skepticism)、と。この「あるべき科学者像」というものこそが、科学者が科学者として振る舞うための精神的なよりどころであり、科学者共同体の駆動原理であるとしたんです。
津田:確かに、なんとなく科学者にはそんなイメージがありますね。
田中:でも、それに対して1990年中盤、英国の科学者、ジョン・ザイマンという人が『縛られたプロメテウス 動的定常状態における科学』(シュプリンガー・フェアラーク東京)[*32] という著作を発表しました。これは朝日新聞デジタルの連載「プロメテウスの罠」[*33] のタイトルともつながっています。文明の発展のために人類に火をもたらしたギリシャ神話の神・プロメテウスは、最終的にゼウスの怒りを買って山頂に鎖で縛られてしまう。この神話と同様に、科学者は神から火を盗むように知識を人間の手にもたらし、文明の発展に貢献してきたかもしれないが、今や科学とはけっして自由な知識活動ではなく、経済や政治などの鎖で縛られている——ザイマンはそれを「PLACE」というアイデアを使って指摘したんです。まず、知識を自分で所有(Proprietary)して貯め込もうとするし、全員が同じ知識を共有しているか、といわれるとそんなことはなくて、一部の人たちが局所的(Local)に占有している。そして権威主義者(Authoritarian)として振る舞っているでしょ、というわけです。
津田:それこそ、メディアがその権威を裏付けしてくれますしね。「客員や特任の研究者だから論文の捏造なんかするんだ」と。
田中:そうなんですよ。しかも、社会に求められた研究を請負的(Commissioned)にしかできない。現代において、個人の興味のままに活動できる研究者なんてほとんどいないんですよ。たとえばチョウチョ好きの人が、メディアから「客員だ」「特任だ」とバカにされながら、いろんな学校や研究機関を渡り歩いてチョウの研究だけを続けることも不可能ではありません。しかし、ほとんどの科学者は好きなことばかりをやってはいられない。むしろ優秀な研究者であればあるほど、お金になる似て非なる分野——たとえばチョウが好きでもカイコの研究なんかをして研究費を引っ張ってこざるを得ない。そういう、本来の子どもの頃の夢からはちょっと違う、請け負いの専門家的仕事(Expert work)をしているわけです。当然、科学者は普段の自分たちがPLACE的であるということは自覚しているけれど、ひとたびメディアイベントが発生すると、突然CUDOS的なもの——規範的な科学者として振る舞うことを求められるんですよね。これは震災後の「御用学者」レッテル貼り論争 [*34] ともつながると思います。
津田:その話を伺っていると、勇み足をした読売の記者が「ピュア」だったのかなという気はしますね。「学者はCUDOS的な存在に違いない」「森口さんは医療の発展のために日夜活動をしている立派な人なんだ」と思って記事にしてみたら、ものすごくPLACE的な現実を知らしめられた。「ウソをついてでも、この世界で一発当ててやろう」的な人物に出くわしてしまった——。
田中:そうかもしれません。そうやってメディアや世間が「科学者ってCUDOS的なものだよね」って言い出すのと同時に、科学者自身も本来ならCUDOS的でありたいから、そういう振る舞いをしたりしますしね。
津田:その具体例ってあります?
田中:具体的に誰が、というわけではないんですけど、メディアに出てくる科学者って、自分の専門分野以外のこと——たとえば教育行政についてひと言モノ申したりしがちですよね。そして、メディアが科学者のCUDOS的な側面ばかりを追い続けると、PLACE的な問題点を見落としてしまうこともある。たとえば、ノーベル賞受賞直後で今は祝賀ムード一色ですけど、実は山中さんに関する報道を科学社会学的な立場からメディアが批判することも可能なんですよ。それこそ森口さんの発言の中でも数少ない意味のある部分でしたが、この分野でよく言われる「マタイ効果」というものがあります。これも先ほどのマートンが指摘したことなんですが、科学の世界は、新約聖書の中のマタイ福音書の言葉「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」にも似た状況がある。田中真紀子さんが「iPS、素晴らしい!」なんて褒めちぎってますけど、ああやってサクセスストーリーばかりがフィーチャーされると、山中さんの研究室には研究費が集まって、大きな研究機材を買えて人も雇えるようになる。だから研究成果を上げられて、さらに研究費がつくようになるんだけど、その最初のお金をもらえるだけのブレイクスルーに到達できていない研究者はそのぶん貧しくなってしまう。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧することになるんです。[*35]
津田:どの研究機関も大学も、国だって研究費に割ける予算総額は決まっています。一極集中すれば、ほかの研究室が貧しくなるのは当然ですよね。
田中:ええ。山中さんが脚光を浴びれば浴びるほど、研究格差はどんどん広がり「第二、第三の山中」は登場しにくくなるかもしれない。
津田:なるほど。メディアが科学の世界や科学者の実態をきちんと見極めていないと、単に誤報を垂れ流すだけじゃなくて科学の世界に悪影響を及ぼす恐れもある、と。では、この問題はどうすれば解消されるんでしょうか?
田中:こと科学報道の場合は、サイエンスレポーティングとサイエンスジャーナリズムを切り分けて考えるべきなんでしょうね。新規の発見や新しい知識を紹介するレポーティングの場合は、科学者に対して記者は従属的にならざるをえません。多くの人が知らない新事実を伝えるだけに、その道の専門家である科学者に教えを請うほかないわけですから。ここでは、CUDOS的な報道でかまわない。「こんな苦労をして大発見をした」、「これによって、医療の革新が期待される」とかね。でも、「この人の論文は本当に真正なものなのか」「本当に今この研究を進めるべきなのか」という点について切り込んで報道するジャーナリズム的アプローチを忘れてはならないし、それが必要な局面でまで、こういうレポーティング的態度をとるべきではない。そこでは、「この科学者はどういう利害関係の中で動いているのか」、「私はこの報道によって、この科学者にどんな権威を与えようとしているのか」といったPLACE的な視点が絶対に必要なんです。にもかかわらず、森口さんの話に従属的になりすぎたがために、今回の問題が起きてしまった。
津田:科学報道に携わるジャーナリストや記者が科学的リテラシーを上げる必要があるのは当然ですよね。それこそ、ほかの科学者にコメントを求めるような取材手法に限界があるということも今回の事件で改めて示されたんだと思います。
田中:だからツイッターなんかでも「専門記者を増やせ」といった意見をよく見ますし、[*36] 僕自身、2005年に早稲田で科学ジャーナリズムの講義をもつようになった頃は「論文を読める記者をもっと増やすべきなんじゃないか」と思いました。今もその思いはありますし、実際、僕の講義ではジャーナリスト志望の文系学生さんが、半泣きで英語の科学論文を読んで著者にメールインタビューまでしています。ただ、不景気のこのご時世、そんな専門記者を何人も抱えられるメディアがどこにあるんだ、と。そう簡単じゃないわけですよ。そもそも科学の論文って英語で書かれるから、海外の記者に比べて日本人記者には言語的なハードルがある。それでも科学の専門記者はせめて論文の始めと終わりの部分は必ず読んでいるんですけど、ニュアンスを読み取りにくかったりするわけです。専門用語が羅列されているわけですから。
◇広報機関・コミュニケーターの功罪
津田:メディアビジネスが過渡期の今、科学報道に期待しても限界がある。[*37] ならば逆に、その成果や論文の内容を広報する側、それこそ科学者や大学、研究機関のコミュニケーション能力に期待したいんですが……。
田中:確かに、記者のリテラシーではなく科学者サイドの課題もありますよね。たとえば、東北大学大学院の大隅典子 [*38] 教授が「森口騒動と大学広報」というBLOGOSの記事 [*39] で「もしも森口さんがウチの研究科の広報室を通じてプレスリリースを出していれば、こんなことにはならなかったのではないか」「なぜメディアは広報を通さなかった」という言い方をしています。「一つの検証システム、第三者機関として広報があるんだから、メディアはもっと活用するべきだ」と提案しているわけですが、確かにそのとおりだと思います。ただ、問題もあって、これは「大隅先生だから」言えることでもあるんですよ。というのも、大隅先生はずっとそういう意識をもって活動されてきた人だから、彼女の周囲には、同じ組織に所属している学者の研究をほぼすべて把握しているような本当に優秀な科学報道官がいるんです。だからこそ「広報を活用すべき」と言い切れるんだけど、正直な話、今それを日本の科学業界全体に求めるのはムリなんですよね。
津田:科学の世界に限らず、コミュニケーターって圧倒的に人材不足ですもんね。
田中:いたとしても、その人は結局のところ大学や研究所の「職員」ですから。どんなに優秀なコミュニケーターでも、普通は3年もすると異動していなくなっちゃうんですよ。「今、大学で継続的なポストを得ている優秀な広報担当者って、もしかしたら僕でも全員の顔か名前を知ってるんじゃないかな?」ってくらい数が少ないんですよね。
津田:それに、なんでもかんでも広報を通していると、サイエンス“ジャーナリズム”的な記事って書きにくくなりませんか?
田中:まさにその点を『日経サイエンス』の古田彩記者が指摘しています。彼女は、ツイッター上で大隅さんの記事に反論していて、その内容は「科学報道を殺さないために 研究機関へお願い」というタイトルでtogetterにまとめられています。[*40] 彼女が言うには、「すべての取材において広報室を通していたら、サイエンスジャーナリズムは死にます」と。確かに発表報道しかできなくなってしまうし、下手すると横のものを縦にされるような事態も起きかねないわけですからね。これに対しては、「PseuDoctorの科学とニセ科学、それと趣味」というブログの「森口さんの一件では記者が6〜8時間も彼を拘束したそうだけど、そんなふうに科学者の時間を奪うべきではない。広報を通すなり、しかるべき手続きを踏むべきだ」[*41] という、これまたもっともな反論もありますが、古田さんの言い分も決してわからないわけではない。実際、米国や英国では科学分野の広報担当官に対する批判って少なくないですから。
津田:どんな批判があるんでしょうか?
田中:2009年に米国の放送局、CNNが200人規模の大量解雇を行ったんですけど、その時に真っ先に切られたのが「サイエンスセクション」と「天気セクション」でした。この時期に同様のことが欧米のあちこちで起こり、それは今でも続いているんです。で、クビになった「元・科学ジャーナリスト」がどこに流れるかというと、大学や研究所の広報や、英国のサイエンス・メディア・センター [*42] のような組織なんですね。そうして彼らは研究機関が発表するニュースリリースを書くようになるんですけど、これがものすごくかゆいところに手が届く、素晴らしい内容なんですよ。
津田:前職が前職だけに。
田中:ただ、そこで問題になるのが、彼らが作るストーリーの見栄えが良いことなんです。たとえば、欧米は日本に比べて動物実験に対する規制が厳しいですよね。そんな中、300匹のラットを殺して、3匹の成功例があったという実験を報じる時、彼らのような上手い広報官は「3匹“も”成功した」と書いてしまう。コップの中に半分残っている水を「半分も」と見るか「半分しか」と見るか、というのと同じ話なんですけど、そういうレトリックを使うことで特定の印象を与えてしまうこともあるんですよね。
津田:なるほど確かに。言い方の問題といえば、言い方の問題ですが——。
田中:ジャーナリズム的には、300匹の犠牲があったことから目を背けさせる内容になっているとも言える。そして、その情報にそのまま乗っかって記事を書いてしまう二流、三流の記者が増えた、という批判があるんです。科学記者がクビになったので、メディアに残っているのは専門外の記者ばかりですから。何が言いたいかというと、広報を利用して取材を受け、科学者の負担を減らすのはいいことだけど、ジャーナリズムにとっては、優秀な広報官を相手にしているだけではダメだ、と。むしろ危ない話でもあるんですよね。ちなみに、実は黄禹錫事件の時にもこれとまったく同じことが起こっているんですよ。当時、韓国メディアは「249個の卵子を使って2個のES細胞の作製に成功した。常人ならめげる失敗の連続にも負けずに勝利をもぎとった」みたいなことを、何の迷いもなく報道していたんです。
津田:見方を変えれば、「母親の胎内に戻せばヒトに育つ可能性のある受精卵を、247人ぶん殺しました」という解釈もできると。
田中:そうなんです。だけど2005年当時、韓国国内では黄教授はヒーローだった。だから、彼の研究不正を最初にスクープした韓国の放送局MBCの調査報道番組『PD手帳』のスタッフは、ネットで「黄禹錫先生をおとしめようとするマスゴミ」「国賊」という勢いで叩かれたんですね。スポンサーが降りまくって、一時は番組終了に追い込まれるほどの圧力をかけられたんです。[*43]
津田:ところが、その番組の言っていることが実は正しかった、と。
田中:そうしたら今度は一転、ヒーローですよね。「ジャーナリスト魂を体現した『PD手帳』」みたいな感じで(笑)。でも、それもまた地に足のついていないリアクションじゃないですか。だから、まさにその黄禹錫事件が議論になっていた最中、2006年2月のソウルの科学コミュニケーションの国際学会で発言してみたんですよ。「『PD手帳』を過剰に持ち上げるのって次のヒーローを作っただけのことで、同じ危うさを抱えてるんじゃないの?」「相互監視的な緊張感作って本当に良い科学報道を行うためには、誰かをヒーローに祭り上げるんじゃなくて、科学、メディア、社会などの構造的な問題を議論すべきじゃないの?」って。まぁ、今度は僕がフルボッコの炎上の対象になりましたけどね(笑)。ただ、これは韓国に限らず日本もそうなんですけど、僕は「トピックの後追い報道」自体は必ずしも悪いことではないと思っています。複数のメディアが報じることによって初めて、社会全体で議論すべきことが共有されますから。だけど、「観点の後追い報道」は絶対にやめたほうがいい。これもまた事実なんですよね。
津田:批判的検証がない状態って不健全ですもんね。話を戻すと、今回、メディアが森口さんを信じてしまったのは、記者自身に科学的リテラシーの手続きが足りなかったことと、第三者機関である広報が上手く機能していなかったことが原因なんでしょうか? あるいは、森口さん自身の問題というか、人物像によるところは? 実はこれまでにそれなりの実績を上げていた人物だから信じてしまったみたいな部分はなかったんでしょうか。
田中:言い方は悪いですが、端的にいうと、再生医学業界的には「森口さんって誰?」という感じでした。ただ、セルフプロモーションは、騙されても仕方がないくらい上手かった。これについては「BioMedサーカス.com」という医学生物学研究者向けのポータルサイトに、「失敗から学ぶのが好きな人」という匿名の方が端的にまとめてくださっています。[*44] で、森口さんのような人が現れた時、科学の世界ってCUDOS的に振る舞うんですよ。それこそが「科学は最も成功した民主主義」とも呼ばれる所以なんですけど、ある程度のうさん臭さを許容するというか、主流じゃない意見にも耳を傾ける余裕があってこそ、画期的な発見やブレイクスルーが生まれると科学者は信じているんです——僕も含めてね。だから、主流派の意見と異なる意見があってもかまわないし、極端な話、どんなトンデモでも学会発表はできます。実際、学会を運営していると、スピリチュアルな発表をする人って必ずいますからね。そういう人であってもムゲにお断りすることはなく、ほとんど人が観に来ることはない朝イチのセッションに出ていただいたりして、やんわりと「キワモノ扱い」するのが慣習になっている。自分が革新的な発見をしたと信じている研究者の中には、キワモノ扱いされることを楽しむ人だっているんですよ。「今に見てろよ」というところなんでしょうね。専門の研究者だからって、その道のすべてを知っているわけじゃないじゃないですか。だから別の科学者が「すごい発見をした」といえば一言のもとに否定したりはしない。それがマナーというより、科学的な態度の一部なんですよ。森口さんについても、科学者的には「発表している彼の専門は統計学らしいけど、チームの一員だと言っている」「だとすると、僕らの知らない研究チームが上げた実績を、計算するための統計学者として参加した彼が、さも自分だけの手柄のように語っているだけかもしれない」と、ある意味好意的に解釈することもできなくはないんです。
津田:実際は自分は少しタッチしただけのことがらに対して「アレはオレの手柄だ」と触れ回る「アレオレ詐欺」[*45] なだけかもしれない、と(笑)。
田中:ええ。アレオレ詐欺の可能性も捨て切れないから、森口さんの成果についてコメントを求められた科学者は「わからないですね」としか言えなくなってしまうんです。
津田:メディアと研究機関と学者——それぞれの事情が複雑に絡み合った構造的な問題でもあるわけですね。
田中:もっと大きな構造の問題ともいえるかもしれませんね。古い記者やジャーナリスト、それから科学者に話を聞くと、昔はお互いにもっと余裕があったらしいんですよ。それこそ記者が6時間も8時間も研究室に詰めていて、院生の指導のもとじっくり論文を読みつつ、先生の手が空いたタイミングを見計らって「先生、最近なんか面白い話はないですか?」なんて雑談することもできた。ネットもない時代の話だけに、科学者の側にしてみても、いろんな研究室や大学に出入りしている記者は貴重な情報源ですからね。メリットがあるから、ムゲにはしない。実際、僕も科学ジャーナリストとして駆け出しだった頃、そういう機会に何度か遭遇しています。ある研究室で「先生のその研究って、○○先生の研究が目指しているところに似てますね」って言ったら「えっ、それ誰? ちょっと調べてみるよ」という感じで話が進んで、最終的にはその両先生の間で共同研究が始まった、なんてことがありました。ほかにも生物屋さんの研究室で化学の話をしたら「えっ、そんな新素材が発明されたの? 細胞培養に使えるかな?」なんて言われたこともありましたし。
津田:まさにPLACE的というか、専門家が自分の分野の知識を占有していたから、ジャーナリストがそのハブとして機能できていたわけですね。
田中:それって、イギリスの物理学者、C.P. スノーや、ドイツの社会学者、ユルゲン・ハーバーマスたちがすでに1960年代から指摘していたことなんですけどね。ルネサンス以降、科学に限らずあらゆる分野において、それぞれの専門性が高くなり、扱う情報量も増大してしまった。そのため20世紀の半ばには、どんな知識人であれ、ある分野——たとえば科学者が科学全般について「だいたいのことを知っている」なんてことは成立しなくなってしまった。だから、研究者とジャーナリストが持ちつ持たれつの関係でいられた。いや、持ちつ持たれつでやるしかない部分もあったんだけど、最近ではネットが状況をさらに加速させたことによって、メディア自体の体力が奪われることになってしまっているんです。
津田:ネットが状況を複雑にした? どういうことですか?
田中:単純にいえば、情報技術が発達してやることが増えたんですよ。たとえば新聞の朝刊の校了は、昔は前日の23時くらいでした。でもデジタル化が進み、今ではその日の午前2時まで待てたりする。締切のスパンが短くなったことで、稼働時間は増えるし、常時情報が飛び交う状況になった。以前なら、通信社が閉まる時間になったら記者も帰り支度を始められたけど、ネットがある以上、いつどんな情報が飛び込んでくるかわからない。研究者が研究室を離れたらオフィスに電話しても捕まらない時代は、次の日に取材すればよかったんだけど、今や携帯電話があるしメールも送れる。何か情報があればすぐに追いかけなければならない一方で、一つの問題をじっくり追う時間は減っているんですね。英国王立協会 [*46] や米国のAAAS(アメリカ科学振興協会)[*47] 、そして僕らの研究グループなど、いろんな調査機関が発表していることなんですけど、2000年以降、どの国でも科学ジャーナリストは加速度的に忙しくなっているんです。一人ひとりがカバーしなければならない分野が増えている上に、その一つひとつを掘り下げている時間はなくなっている。これが「専門記者を増やせよ、って言われてもムリ」な理由でもあります。科学者がそうであるように、科学系の記者もやるべきことが多くなってしまった。時間に追われて研究室に6時間も8時間も詰めているわけにはいかなくなったから、当然論文も読めなくなっているし、研究者と密なコミュニケーションが取れなくなっているんです。
津田:じゃあ、森口さんが米国で滞在していたホテルにまで押しかけた記者が珍しかっただけで、普通の科学系ジャーナリストにはそんな時間ありはしない、と。
田中:そうですね。取材までしたのになんで失敗したの? と改めて疑問に思ってしまいますが……。
◇3.11が日本のサイエンスコミュニケーションを変えた?
津田:とはいえ、サイエンスコミュニケーションが重要なのは事実ですよね。誰がその担い手を務めればいいと田中さんは思いますか?
田中:科学のジャーナリズムに関していえば、大手メディアの科学部には自浄作用を期待したいですね。科学部をもたないような中小メディアには、宣伝になっちゃいますが——僕もスタッフとして参加している、日本のサイエンス・メディア・センター [*48] なんかを使ってほしいんですよ。今回こうやって取材を受けているように、森口さんの一件のような、社会的関心の高い科学的トピックが起きた時には、僕たちスタッフがメディアやジャーナリストの求めに応じます。読むべき論文を紹介したり、スタッフでは対応できないような案件であっても、しかるべき科学者や研究機関を紹介することができる。先ほど、サイエンス・メディア・センターのような組織のネガティブな側面も紹介しましたけど、それでも科学的正しさを社会的に担保する組織の一つであることには違いないですから。
津田:ジャーナリストやメディアにとってはもちろん、科学者側にもメリットはありますよね。科学的素養のある人が自分とメディアの間に入ってくれれば、研究や意見を正確に届けられるわけですし。
田中:そうありたいですよね。特に震災以降、科学者の中には「我々は何もできなかった」——つまり、社会の役に立ってないんじゃないか、と反省する人も少なくなかったし、逆に「科学者は何をやってるんだ」という批判の声もありました。確かに日本のサイエンスコミュニケーションはCUDOSベースで進められてきたから、震災対応のようなPLACEベースの議論、社会的議論に耐え得ない部分はあります。ただ、CUDOS的な科学の在り方が必ずしも反省や批判の対象になるのか、と言われればそうではないはずなんですよね。ものすごくシンプルなたとえ話をするなら「天文学なんてすぐに生活の役に立つわけではないのに、なんで税金を使って推進しているんだ」っていう問いに対して「それでもロマンは必要でしょ」と回答するのはアリだと思うんですよ。それが極端に盛り上がったのが「はやぶさ」の帰還イベントだったわけですけど、PLACE的な問いに対してCUDOS的な回答したからといって、それは必ずしも二律背反するわけではないんです。
津田:今すぐ役に立つわけではないにせよ、いずれ社会や人類の役に立つかもしれない——。
田中:そういう例としてよく取り上げられるのが、「ミリカンの油滴実験」[*49] ですね。1909年、米国の物理学者、ロバート・ミリカンのチームが、2枚の電極の間に油滴を通過させることで、その油滴の電荷を測定する実験を行ったんですけど、当時の社会では「そんなことやって、なんの役に立つの?」なんて言われていた。それこそ平賀源内のエレキテル [*50] と一緒。科学界はともかく、世間的には「ビリビリするね」「面白い現象だね」で話が終わっちゃっていた。でも、今の僕らはそうした研究の成果としてある、電気の仕組みに依存せずには生きていけない。「それがなんの役に?」なんて言えないですよね。津田さんがおっしゃるとおり、その実験や研究がもたらす未来の話をすることでPLACE的な問いからCUDOS的な科学をディフェンスすることはできるんですよ。サイエンス・メディア・センターはこれまで科学者も社会も避けてきていた、そういう応答に正面から向き合う役割もいずれは担いたいと思っています。ただ、特に経済が危機的な状況になると、CUDOS的な態度を許さないムードが強くなるんですよね。事業仕分けなんかはその典型例ですけど。
津田:確かに「2位じゃダメなんですか?」なんてまさにPLACE的な問いですよね。
田中:とはいえ、個人的には「今は過渡期なんだろうな」という気はしています。英国なんかは日本に比べると、科学をちゃんと社会の問題にできている。だから以前、英国の王立協会(世界最古の科学学会)の人に半ば冗談、半ば皮肉で言ってみたんですよ。「さすがファラデー先生 [*51] 以来の伝統がある国は違いますね」って(笑)。そうしたら「いや、そんなことはないんだ」と。「イギリスは科学啓蒙に1985年から本格的に取り組み始め、啓蒙じゃだめだ、双方向コミュニケーションだ、と修正を重ねてきた。そうして20年かけてようやく今の形になったし、何よりその最中に育ってきた科学者たちがベターな状態をもたらしたんだ」と言うんですよ。1985年というのはBSE(狂牛病)問題が起きた年で、英国では「BSEという深刻な問題に直面しているのに、なんで加速器の研究なんかにお金を出してるの?」といった議論が持ち上がったんです。だけど、加速器による原子核や素粒子の実験は量子コンピュータの開発などにもつながるし、加速器自体はがん治療にも応用できる。そこで英国は、その85年に「知識が足らない人に教えるのは科学者の責務である」と明文化した「ボドマーレポート」[*52]
という有名なレポートを発表して、科学啓蒙を推し進めたんです。米国でもAAASが同年から「Project2061」——次にハレー彗星が地球に大接近する2061年までに、世界一の科学大国になるための大規模な教育改革プログラムを実施しています。[*53] 英米のいずれも、「啓蒙」だけだと人々はついてきてくれないと気づいた。科学の社会的意味付けの過程に、いかにして「参画」してもらうか、という方針に変わったんです。
津田:一方、当時の日本は?
田中:その頃はまだまだ経済が上手くいっていたし、その後バブルが崩壊したとはいえ、一気に落ち込んだりはしなかった。だから、「国民のリテラシーを上げよう」「理科離れを防ごう」という雰囲気はあったものの、科学に対する危機感は足りなかったんです。スタート地点は英米と同じだったのに、そこから「啓蒙だけじゃどうもうまくいかない」というところまでは行かなかったんですね。それが、東日本大震災があってようやく「ちょっと待てよ?」「科学的な問題について、科学者も社会と一緒に議論してこなかったよね」という雰囲気になりつつある。サイエンス・メディア・センターで活動していると、社会的問題意識をもって、今話題になっている科学的トピックを語ろうとしている科学者とも接しますから。このまま日本でも科学の双方向コミュニケーションや参画型のコミュニケーションを進めるムードが高まれば、諸外国以上にうまく科学を社会の話題、ストーリーに組み込めるはずです。
津田:それはなぜ?
田中:日本は諸外国に比べて、すでに芳醇な科学的情報が社会に届いているんですよ。僕が科学者にインタビューしていると、「『ニューヨーク・タイムズ』の科学報道は素晴らしい。それに比べて日本は……」なんてよく言われるんですけど、『ニューヨーク・タイムズ』はクオリティ・ペーパー。それなりの知識や教養のある人が読む新聞ですよね。それと、全国津々浦々、誰もが読む日本の新聞を同列に比較するのはおかしな話なんです。[*54]
そういう視点に立つなら、日本の新聞の科学系の記事は十分いい線いっている。社会全体で考えても、街の書店で当たり前のように科学雑誌が売られていますしね。専門用語バリバリの論文そのものから、わかりやすくかみ砕いて解説されたもの、うさん臭いネットの書き込みまで、ありとあらゆる科学知識がさまざまなグラデーションをもって広く紹介されている。そんな国、ほかになかなかないですよ。しかもそのおかげで、職業専門家以外にも、科学マニアや科学にアレルギーのない潜在的な科学ファン——言ってしまえば「科学オタク」も一定数以上いる。彼らを科学情報の流れに組み込んでいくことも重要なポイントの一つだと思っています。
津田:事業仕分けに反発したのも、科学におけるCUDOS的なロマンや重要性を信じているマニアやオタク層が中心でしたしね。
田中:そうなんです。あと日本って、ポップカルチャーの中に科学知識を取り込むのも上手いんですよね。マーベルコミックスでは絶対にやれないようなSF設定も、日本のマンガやアニメならできる。『新世紀エヴァンゲリオン』が最初に放映されたのって1996年くらいでしたっけ?
津田:1995から1996年にかけてですね。[*55]
田中:その90年代中盤ごろ、細胞が自ら勝手に死んでいく「アポトーシス」[*56] の概念って、世界的には一般的な知識ではなかったんです。新聞データベースを調べても2件しか記事がありませんでした。ところが、エヴァのパイロットであるチルドレンがエントリープラグの中でL.C.L.に浸かっている最中、オペレーターが言うんですよね。「アポトーシス作業、問題ありません」って。あんなセリフ、当時のアメリカならハードSFにしか載りませんよ。
津田:なのに、日本では地上波で夕方から放送しているアニメで普通に言っていたわけですね(笑)。
田中:そう。そこに視聴者は引っかかりを感じて、調べて、同人誌というメディアで語り合ったりする。こういう人たちがいることが大切です。最近でこそ劇中の科学考証も進んでいますけど、マーベルコミックスだって長い間——それこそ『スパイダーマン』なんかは「放射能を浴びたクモに噛まれたから手から糸が出るようになっちゃった」っていう程度のお話しかしていないんですよ。
津田:世界全体がサイエンスコミュニケーションの問題を抱える中、相対的に見ると実は日本って悪くないんじゃない? と。
田中:僕は「ハシゴはつながっている」っていう言い方をしているんですけど、科学者と社会の間が完全に色分けされているわけではない。ちゃんとグラデーションがかかっているし、特にオタク層の科学リテラシーの色は濃い。実は芳醇な環境が拡がっているので、これをどう社会の話題にしていくかが今後のテーマなんでしょうね。
津田:サイエンス・メディア・センターに対する科学者の反応はいかがですか?
田中:先ほどもお話ししたように「そのニュースはオレの専門分野だから、ちょっと怖いけど頑張ってしゃべります」「議論に参加します」と積極的に手を挙げてくださる若手科学者がいる一方で、まだまだ社会との双方向コミュニケーションの重要性を理解していない科学者も多いですね。特に年配者の中には、かなり権威主義的な方がまだまだいます。「愚民どもは導いてやらないと、すぐにパニックになるからダメなんだよ」みたいな。
津田:「パニックになるからダメ」って、既存大手メディアにいるジャーナリストにもまったく同じ考え方する人いますよね。
田中:でも、両者はもはやそういう存在じゃないですよね。科学者もジャーナリストも、現代のコミュニケーションにおいては“gate watching not gate keeping”——情報の門番ではなくて、単なる見張り番でしかない。「情報を世間に向けて通過させるかどうかはオレたちが決めるんだ」なんて発想ではいられなくて、ただ流れゆく情報を眺めているだけ。そして時々「おい、今ちょっと怪しいヤツが通ったぞ」とふれてまわるくらいの仕事しかできないんですよ。ただ、10年、20年経って、見張り番や語り手の数が増えれば、それだけ社会にとっては信頼できる情報判断の手がかりが増えることになる。科学者にとっても、一人ひとりで8時間もジャーナリストやメディアに拘束されることがなくなることになるはずなんです。
津田:どこの世界にもやっぱり世代のギャップってあるんですね。
田中:一概には言えないですけどね。僕がサイエンスコミュニケーションの議論に参加すると、若い科学者から「サイエンスコミュニケーションってみんなやらなきゃいけないんですか?」って聞かれることはありますから。「そんなことをやっているヒマがあったら研究したいんですけど」「そもそも3年先の自分の立場が怪しいので、そんなことはやってられない」と。もちろんその選択肢も大切なんです。科学者の本分は研究ですから。だからそういう人に対しては、「普段のサイエンスコミュニケーションは、それが楽しかったり、気分転換になったり、研究のためのアイデア探しになる人がすればいい。ただ、その一方で、あなたの研究テーマが社会的な話題や事件に関わってきた時には、専門家として社会に向けて語る責任が生じる。その心構えはしておいてくださいね」という話はするようにしています。
◇ツイッターが描く、科学知識のグラデーション
津田:そのためのツール、言論空間としてのツイッターってどういうふうにご覧になっていますか? 3.11以降、東大大学院の早野龍五教授(@hayano)や、大阪大学の菊池誠教授(@kikumaco)をはじめ、いろんな研究者がツイッターで議論を進めていますよね。
田中:アリだと思いますね。先日、社会技術研究開発センター [*57] のシンポジウムで、社会には科学のみで解決できる科学的問題と、科学だけでは解決できない科学的問題があるという考え方——トランス・サイエンス [*58] の概念を日本に紹介した立役者でもある大阪大学の小林傳司教授が「こもる研究者、踏み出す研究者、踏み荒らす研究者」という表現を使っていたんです。震災以降、悪いことではありませんが——何ら発言することなく研究室にこもった研究者と、議論の場に一歩踏み出した研究者がいた、と。あと、議論の場を踏み荒らした研究者も。
津田:そういう人も、放射線問題については何人かいますよね……。
田中:そうやって、さまざまな研究者が「これは自分の専門じゃないんだけど、こういうことなんじゃないかな?」と、ちょっとずつ新たな領域に踏み出すことで、それぞれの領域が重なり合うはず。そして、その重なり合った領域こそが社会に求められる知識なんじゃないか、とおっしゃっていたんです。「そんな甘っちょろいこと、夢見がちなことを言うんじゃない」という批判もあったんですけど、今日のようにそれぞれの科学分野の知識が高度化・専門化して分散し、PLACE的な束縛が強まっている以上、小林さんの指摘は一面の真実だと思っています。
津田:それこそ科学ジャーナリスト時代に田中さんが、ご自分の持っている情報をハブにして2人の先生をつないだようなことが、ツイッターならできるかもしれない。実際、放射線周辺の分野ではそういうことって起きてますよね?
田中:三重大学の勝川俊雄准教授(@katukawa)なんかはまさに踏み出す研究者像を体現していますよね。あの踏み出し方は本当に見事でした。勝川さんの専門は水産資源。要は漁業——お魚の専門家なんだけど、PLACE的な立ち位置から一歩踏み出して放射能や放射線のことを勉強して、その過程をツイッターで発表していた。彼の著書『日本の魚は大丈夫か——漁業は三陸から生まれ代わる』(NHK出版新書)[*59] の巻末には、福島第一原発事故後の放射能汚染が心配で、魚を食べて良いものか悩んでいる人たちに向けたメッセージがあります。「政府の発表を信じられるなら、魚はこう食べるといい。もうちょっと警戒してICRP(国際放射線防護委員会)を信じるならこの食べ方。不便でもいいからさらに警戒してECR(欧州放射線学会。ただし政治色が強く、その主張の科学的妥当性については議論がある)を信じるならこの食べ方」と、3つの選択肢を提示しているんです。選択肢が2つじゃなくて3つあるっていうのもいいんですよ。読者は白か黒かではなく、警戒の度合いに応じて好きなものを選択できますから。そういう意味でも理想的なサイエンスコミュニケーション、リスクコミュニケーションを実践している方ですね。
津田:魚の食べ方という自分の専門分野の知識と、あとから学んだ放射能や各国の規制の実態という知識を上手に組み合わせて踏み出した好例だ、と。
田中:ええ。そのほかに、早野さんだって「農作物のことなら農水省の原田英男さん(@hideoharada)に、漁業なら勝川さんに聞いてくれ」とツイッターで話を振っていたりしますし、みなさん、結構分業を進めていますよね。早野さんに対しては、東日本大震災ビッグデータワークショップ「Project311」[*60] での活躍について「踏み荒らしている」という批判もあるものの、やっぱり表に出て行く勇気が大切です。実際、SF作家の野尻抱介さん(@nojiri_h)は、ツイッターで「(原子力ムラのように、PLACEに縛られた)問題領域そのものの専門家は本当のことを言っているのかどうかわからないから信頼できない。むしろ周辺分野の専門家が学んでいくプロセスをツイッターで見ることが一番役に立った」といったことをつぶやいています。高度な科学知識をもつSF作家だからこそ、早野さんがツイッターで展開していた専門的な議論についていけたという部分はあります。放射能の汚染や人体影響の専門家でない早野さんが、ほかの分野の専門家から教わったことを自分の言葉に置き換えて「なるほど。つまりこういうことか」とつぶやいているのを見た野尻さんが、また自分の言葉に置き換えて「なるほど。つまりこういうことか」とつぶやく。そうすることで、野尻さんほど科学に明るくないSFファンも「なるほど。つまりこういうことか」とつぶやけるという構造ができあがっていたんですよ。
津田:きちんと科学情報のグラデーションが描けていたわけですね。
田中:ええ。集合知とはちょっと違う、一部の知的エリートが議論を引っ張っている側面もあるにはあるんですけど、熟議の中の代表者がノードになって、そこから情報や影響が波状的に拡がっているのは間違いないですね。
津田:そして、その科学者と社会のコミュニケーションをもっと効率的に、科学者の手をそれほどわずらわせずに実践するためのハブになるのがサイエンス・メディア・センターだというわけですね。実際、僕も参考にしているし、いろんなところで紹介させてもらっています。ただ、田中さんのお話を聞いていると、本当に茨の道というか……大変な事業に取り組んでいるなぁ、という気がして仕方がないんですよ。
田中:確かに(笑)。津田さんをはじめ、いろんな方々にサイエンス・メディア・センターを評価していただいているんですけど、じゃあ「運営資金をくれますか?」って言ったら、誰もくれないんですよねえ(笑)。
津田:そのあたりは、僕が構想している政治メディアとまったく抱えている課題が一緒ですね。ちゃんとビジネスとして成立しなければ、せっかくの情報も広く届けられない。お互い、試行錯誤して頑張っていきましょう。
▼田中 幹人(たなか・みきひと)
1972年静岡県生まれ。国際基督教大学教養学部理学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻生命環境科学系博士号取得(分子細胞生物学)。国立精神・神経センター流動研究員、早稲田大学 科学技術ジャーナリスト養成プログラム客員講師を経て、現在は早稲田大学政治経済学術院ジャーナリズム・コース准教授(任期付き)。著書に『iPS細胞——ヒトはどこまで再生できるか』(日本実業出版社)、『大学はなぜ必要か』(NTT出版)、『植物の生存戦略』(朝日選書)、『災害弱者と情報弱者:3.11後、何が見過ごされたのか』(筑摩選書)などがある。
ツイッターID:@J_Steman
[*1] http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG13014_T11C12A0CC0000/
[*2] http://gohoo.org/news/121106/
[*3] http://ryukyushimpo.jp/info/storyid-197930-storytopic-1.html
[*4] Googleキャッシュ→http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:lj9cFJhOD90J:www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012101602000117.html+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
記事のミラー→http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11380931172.html
[*5] http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/134462.html
[*6] http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201210120636.html
[*7] http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121106-OYT1T00711.htm
[*8] http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201210120674.html
[*9] http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-01/2007070114_01_0f.html
http://b.hatena.ne.jp/articles/201201/7289
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006825822
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000884.html
[*10] http://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%89%E3%82%AF%E5%95%8F%E9%A1%8C
[*11] http://k-ris.keio.ac.jp/Profiles/0150/0018887/profile.html
http://researchmap.jp/yashiro_y/
[*12] http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-1610.html
http://blogs.yahoo.co.jp/twwbgs_17365g/61165105.html
[*13] http://www.pref.fukushima.jp/keieishien/kenkyuukaihatu/gijyutsufukyuu/minkan/240517taihidata.pdf
http://d.hatena.ne.jp/warbler/20120907/1346997502
http://astand.asahi.com/magazine/wrscience/2012080300007.html
http://synodos.livedoor.biz/archives/1796844.html
[*14] 放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送と青少年に関する委員会は2004年12月8日に「『血液型を扱う番組』に対する要望」という文書を公表。放送各局に対して血液型によって人間の性格が規定されるという見方を助長することのないよう要望を出した。
http://www.bpo.gr.jp/?p=5125
[*15] http://mainichi.jp/select/news/20121013k0000m040087000c.html
[*16] http://fukumoto.lsx3.net/?%B9%F5%C2%F4%2F%B9%F5%C2%F4#he8852e8
[*17] http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4534043848/tsudamag-22
[*18] http://www.ieice.or.jp/jpn/books/kaishikiji/2007/200701.pdf
[*19] http://www.nhk.or.jp/suiensaa/
[*20] http://www.shiminkagaku.org/archives/2007/02/interview9.html
http://www.chikyu.ac.jp/sci_et_soc/Archives/Document/muramatsu4.pdf
[*21] http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121502264/tsudamag-22
[*23] http://allabout.co.jp/gm/gc/292750/
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/v/04/
http://www.asyura2.com/0510/asia3/msg/421.html
[*24] http://www.asahi.com/national/update/1014/TKY201210130608.html
http://www.youtube.com/watch?v=5YBHjeFzmZU
[*25] http://www.bio-portal.jp/bio-dictionary/2008/11/asilomar_conference.html
http://jsv.umin.jp/microbiology/main_028.htm
http://www.jseb.jp/jeb/06-01/06-01-003.pdf
[*26] http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1349944381/
[*27] http://www.47news.jp/47topics/e/235162.php
[*28] http://smc-japan.org/?p=2900
[*29] http://www.nature.com/news/stem-cell-transplant-claims-debunked-1.11584
[*30] http://mainichi.jp/select/news/20121013k0000e040190000c.html
http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201210130160.html
[*31] http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100711CUDOS.html
http://www.nikken-ri.com/forum/242.htm
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/ethos.htm
[*32] http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4431706895/tsudamag-22
[*33] http://digital.asahi.com/articles/list/prometheus.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4054052347/tsudamag-22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4054053858/tsudamag-22
[*34] http://www.sci.tohoku.ac.jp/hondou/files/kagaku2011-9-1.pdf
[*35] http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00136225/DaigakuRonshu_11_1.pdf
[*36] http://togetter.com/li/403078
[*37] http://togetter.com/li/402536
[*38] http://nosumi.exblog.jp/
[*39] http://blogos.com/article/48355/
[*40] http://togetter.com/li/391591
[*41] http://pseudoctor-science-and-hobby.blogspot.jp/2012/10/blog-post_21.html
[*42] http://www.sciencemediacentre.org/
[*44] http://biomedcircus.com/research_02_22.html
[*45] http://internet.watch.impress.co.jp/docs/yajiuma/20100826_389280.html
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20100830-00003415-r25
[*46] http://royalsociety.org/
[*47] http://www.aaas.org/
[*48] http://smc-japan.org/
[*50] http://www.teipark.jp/display/museum_shozou/museum_shozou_08.html
[*51] http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0859.html
[*52] P5「ボドマーレポートの概要」
http://www.science-for-all.jp/link/download/sub1-012.pdf
[*53] http://www.project2061.org/
[*54] 2012年のニューヨークタイムズの部数は紙版が77万9731部。電子版が80
万7026部。日本の大手新聞社と比べて大きな差がある。
http://nyliberty.exblog.jp/18231626/
[*56] http://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9
[*57] http://www.ristex.jp
[*58] http://www.csij.org/01/shiminkagaku/07/index.html
[*59] http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/414088360X/tsudamag-22
[*60] https://sites.google.com/site/prj311/
最終更新: 2012年11月18日